主の神殿、主の神殿、主の神殿

チア・シード

エレミヤ7:1-7   


預言者は、神からの言葉を預かって告げる者です。「主からエレミヤに臨んだ言葉」であるというのは当然ですが、いまこれを「主の神殿の門に立ち」「叫べ」と命じられました。このシチュエーションのすべてが、メッセージの意味を伝えることになります。これは私たちのリアリティで言えば、教会の本部で叫ぶようなことにもなりましょう。
 
人々が、これこそ宗教であり政治であり、人間の最高に価値あるものと疑うことのない真実の権威の真っ只中で、そのすべてを改めよ、と突きつけているのです。「あなたがたの道と行い」を改める、とはそういうことです。「「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」という偽りの言葉を信頼してはならない」のところに、「教会」が聞こえてきます。
 
私たちにとり「主の神殿」とは「教会」にほかならないのです。それは「主を礼拝するためにこれらの門に入るすべてのユダの人々」へ叫んでいるのですが、キリスト教を求めて訪ねる人々に伝えているように聞こえます。エレミヤは、純朴な信徒を一人ひとり責めているのではありません。これこそ神の教会だ、と豪語する者に対してです。
 
寄留者、孤児、寡婦を虐げているのです。罪なき人の血を流し、他の神々に従っているのです。まさか教会と名の付くところがそんなことをするはずがない、とお思いでしょうか。そういうイドラが罠なのです。だからすいすいと流されて吸い込まれてしまいます。皆がそちらに行っているからついてゆく。何かおかしいと薄々感じていたにしても。
 
自分一人そう感じても、きっと自分の方が間違っていると思い、自分を殺して抑えます。抵抗することなく、強者の論理に乗っかります。すると自分もまたその「皆」の一人と化して、新たな気の弱い者をその道に誘い込む力に加担してしまうことになります。傍観しているかのように勘違いするのですが、実は加担することになる、と気づきたいものです。
 
この場所に、とこしえまで住まわせるためには、「道と行い」を改めよ、と言い広めるように主はエレミヤに言いました。公正をなすために「道と行い」改めよ。神殿が「盗賊たちの巣窟となった」(11)ことは、共観福音書がイエスの言葉として引用しています。私たちは、その言葉が向けられている当事者だ、と自覚しなければなりません。


Takapan
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