それなのにあなたがたはやって来て

チア・シード

エレミヤ7:1-11   


エレミヤは主の命を受けて、主の神殿の門に立ちました。礼拝するためにその門に入ってくる、ユダの人々へ向けてという限定的な意味で、主の言葉を聞かせるためです。人々よ、悔い改めよ。エレミヤは思い切った言葉をぶつけます。こんなことを言われて、人々がエレミヤをどうするか、恐れはなかったのでしょうか。勇気のある行為です。
 
口先で、ここは主の神殿だと連呼したところで、実際は、弱い立場の人々を虐げるのでないならばよいものを、それをやっているではないか、とエレミヤは厳しい言葉を投げかけます。無益な偽りの言葉ばかりではないか。他の神々従っているではないか。それなのに、いけしゃあしゃあとこの新聞に来て、「救われた」などと言い、悪を止めないとは。
 
エレミヤは、これを盗賊たちの巣窟としているのだ、と指摘します。これは正にイエスが、神殿で商人たちを追い出したときの台詞です。つまりあのイエスの大立ち回りは、エレミヤのこの裁きの再来であり、このスピリットの投げかけであった、ということになります。だとすれば、イエスはあのとき、商業活動について怒ったのではありません。
 
金を目的にして商売をしていたことに憤ったのではなく、信仰それものを、それが偽りであると非難したのです。ここでエレミヤが批判していることを聞き、現代人としての教会員は震え上がらないではいられないでしょう。自分とは関係がないと思った者こそ、正に主の言葉を正面から突きつけられた者となったことに、気づくでありましょうから。
 
救われたのだ、と安心しているのは、主の言葉からではなかったことに気づくでしょうか。教会に来ているから大丈夫、と互いに顔を見合わせて笑みを浮かべていたことが、暴露されるでしょうか。あとは何をしてもよいのだ、と高を括ってはいなかったでしょうか。いつの間にか教会というところが、人間臭い原理で動いていなかったでしょうか。
 
他の神々を拝んでなどいるものか、と言いつつ、教会にはどんな形であれ牧師という偶像を立てねばならない、と躍起になっていませんでしたか。それで失敗した教会を、いくつも見てきたからこそ、私は問いかけたい。神の言葉とはとても思えぬ「説教」をプログラムを埋めるために要請し、誰も聞いてなどいないという現実が、あったからです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります