主の言葉を聞け

チア・シード

エレミヤ7:1-15   


主が預言者エレミヤに言葉を授けました。エレミヤがその言葉を神殿の門から人々に呼びかけます。少なくとも、呼びかけよとまず命じられています。ここに来ている人々は、主を礼拝するために門を潜っています。これは、教会に足を運んでいる人々に比してもよかろうかと思います。その人々に向けて、主の言葉を聞け、と叫んでいるのです。
 
教会へ来る私たちは、主の言葉を聞いているでしょうか。それが問われているかもしれません。神殿という語を、教会と読み替えてみると、教会・教会と軽く幾度も口にする者がなんと空しいことかとここに挙げられています。そこに主の言葉がないのです。いくら盛んに教会という単語を口にしても、礼拝の中で主の言葉を聞いていない、それを軸にいつも生きているのではないとすれば、私たちはなんと恥ずかしいものでしょう。
 
エレミヤはここでいくつもの禁止事項を示しています。ということは、それが実際になされていたからにほかなりません。誰もやらないことを禁止する道理はないからです。教会という空しいだけの言葉を口にするだけでもつまらないものですが、やっていることが事実悪であるというのなら、「救われた」などと自己義認することの、なんと益々空しいことか。
 
教会の内でそんなことをしている者が、いるはずがない。そう高をくくっていませんか。いえ、あの人がそうか、この人か、と疑うように仕向けているのではありません。私、この私こそそれをしているのではないかと問い直してみるべきなのです。主からの言葉を蔑ろにして自ら救われたと喜んでいる姿を自分のことかもしれないと感じるナイーブさを私たちは持ち合わせているでしょうか。
 
主はこれもでも、ずっと民に呼びかけていました。しかし、民は応えませんでした。兄弟をさえ棄てました。つまり仲間を非難し、見下して排除しました。これは過去の物語であり、私とは関係のない他人の出来事なのでしょうか。そんな傍観者になれるほど私は正しいのでしょうか。あるいは、私がいつの間にか神になっていやしないでしょうか。
 
主はいま、エレミヤならぬ無名の預言者の口から、人の罪を問うています。その罪を、自分のこととは少しも考えず、気づきもしない悪人が確かにいるのですが、それが自分ではないと言い切れる者は、誰ひとりとしていないのです。気づきたい、気づかせてください、そして赦してください。私たちは、外からの声に耳を傾けつつ歩みたいと願います。


Takapan
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