遊女の罪ではなく

チア・シード

エレミヤ5:7-9   


あなたを赦せない。神に代わってエレミヤが言います。神を捨てたからです。なお神が導き、恵みを与えても、なおエルサレムの子らは他の神々を慕い求めました。エレミヤの口からは、これを姦淫と呼びます。姦淫、それは規定の男女の関係の外に、男女関係を結ぶことです。これはイスラエルの民が神を捨てたことの象徴となりました。
 
姦淫とは、最高度の断罪の言葉ではないでしょうか。おまえは関係を破壊した、と言うのです。おまえこそが関係を崩したと突きつけます。信頼を裏切り、関係を断ちきることをしました。ここでは男に対して、おまえは遊女の家に行ったのだと指摘します。遊女、あるいは売春婦。嫌な言葉ですが、歴史的に存在したことでお許し戴きたい。
 
遊女は、性を売ることを生業とする女性です。貧しさから売られてそうなったとか、奴隷とされてそうなったとか、いろいろな事情もありうると思われます。今も昔も尽きない職業のひとつですが、これは単独で成り立つ仕事ではありません。買う者がいます。基本的に男です。買う側の男は通例罰されもせず、何の責任も追わないように見えます。
 
ならば、遊女はひとつの職業だと割り切ることも可能です。遊女と交わっても、家庭を破壊するには至りません。人妻と交われば、その夫たる男の財産を侵したという扱いをも受けましょうが、女性という財を盗んだということも、遊女相手ならば起こりません。法的な権利の侵害や財産への損害を、誰にも及ぼしていないのです。
 
こうして現代でも、問われることがあるわけです。誰にも迷惑をかけていないのにどうしていけないのか、と子どものような女性が逆らって口にするとき、これを封じる論理を、おとなたちは持ち合わせていないように見受けられます。自分を大切にしろなどと言ってみたところで、煙草や不健康な生活の人を罰する法もないため、説得力がありません。
 
ここでもよく見ると、神は、遊女を罰するようなことを言っていないことに気づきます。遊女に憤っているのでもなさそうです。男の側を責めています。罰するぞ、報復するぞ、と男をオドしています。否、現にイスラエルは攻められ、エルサレムは破壊されています。エレミヤはこれをもう見ています。こちらが問題なのです。
 
遊女のほうをどうにかしようというのではなく、エルサレムという神の名を置いた都の背反を、専ら裁こうとしているのです。もし、失礼ながら罪の生活をしているこの世の人々を遊女に重ねるならば、神の名の下にあるキリスト者が逆らうことをこそ、裁くのです。口先で神よ神よと言う者のほうが、実は質が悪いと自覚しているでしょうか。


Takapan
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