罪は赦される

チア・シード

エレミヤ50:17-20   


エレミヤは、ユダの罪を知っています。バビロニア帝国の侵攻に対して、逃げるという選択肢は神の背くものと理解しました。これは受けなくてはならない試練である、と。ユダの人々が、多分にその有力な人員が、しばらくの間凌ぐことになるバビロンの町。もちろんそのバビロンそのものが、神の是とするところのものではありません。
 
神が選ばれたのはイスラエルです。バビロンではありません。確かにイスラエルは罰を受けなくてはなりませんでした。神に背を向け、従わなかったからです。でもエレミヤは、その神の命に従う預言者として、いまここにいます。イスラエルは罰されました。しかし、イスラエルを罰した役割を果たしたバビロンが祝されるわけではありません。
 
そもそも神の敵のような存在なのです。以前はアッシリア帝国がその立場にあり、イスラエルを痛めつけました。でも、帝国は滅びました。このバビロニア帝国も、同様の立場にあるのだ、とエレミヤは指摘します。イスラエルは痛い目に遭いましたが、それを以て聖書の成立する機会となし、やがて元の地に民が還ってくることになるのです。
 
エフライムの草原が元の生活をもたらすでしょう。ユダに限らず、イスラエルの広い土地が、息を吹き返すことになるでしょう。イスラエルは、赦されるのです。主は、イスラエルの過ちをもう残しはしません。ユダの罪も、もう探しても見つからなくなります。主は豊かにその罪を赦します。背いた人々を、すべて赦すというのです。
 
この歴史物語とその背景にある神の計らいというものが、自身のものとして受け止められる読者は幸いです。赦されるイスラエルの姿の中に自分を見出す読者は幸いです。私の罪は私を、ひととき厳しい苦難と恥の中へと連行することでしょう。罰だと思われる目に遭うかも知れません。しかし主は豊かに赦し返してくださるのです。


Takapan
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