私は見た

チア・シード

エレミヤ4:22-28   


私は見た。預言者は繰り返します。荒廃したこの世界の姿を見たのです。北からの敵がイスラエルの地を襲い、荒れ果てた風景にすっかり変えてしまうのを、目の当たりにしたというのです。私は見た。でもどのように見たのでしょうか。視覚的にその状態を過去のものとして見たのではない設定です。将来のこと、幻を見ていることになっています。
 
私は見た。完了形です。すでにそうなったこと、その事態が完成してしまったことをいいます。自分の心の中でも、それは決定したことであり、そうだという判断が固まったことを意味します。信仰の核心はこうでありたいものです。多分そうだろうとか、こうではないか、というようなレベルで口にするものではないということです。
 
私は、確かに見たのです。なんなら出るところに出て証言してもいい。誰が何と言おうと私はこうとしか言いようがないのだ。イエス・キリストに出会ったことで、このようなことが言える人だけが、神の言葉を生きたものとして語ることができます。そうでなければ、神を礼拝する場において語ることは許されません。そんなことはできないはずなのです。
 
エレミヤが繰り返す「私は見た」のスピリットこそが、神の言葉を伝える要件です。私の民は私を知ろうとしない、と主はここの直前で嘆いていますが、「私は見た」のないままに神を偽証するようなことが愚かだとされているのです。その「知る」もまた、全人格的な出会いの体験をすることであり、聞き知っているという程度のことではありません。
 
エレミヤの次元はもちろんそれとは違います。確かに見たのです。全人生を賭けてもいい。いや、そういう気負いすらないほどに当たり前のことを、エレミヤは叫んでいるだけです。ただもうエレミヤには、それしかないのです。この確信の言明に対して、主はどう返したでしょうか。完全に滅ぼし尽くすことはない、と言ったのです。
 
確かに荒れ果ててはしまいました。でも、滅亡が必至なのではありません。主の決めた審きは確かに実現するのですが、一筋の光がそこに射してきます。エレミヤは悲観的で終わらず希望をもたらします。人間の目からは見るものがなくなったようでも、その先に救いがあるのを「私は見た」と言える時が、きっとくるというのです。


Takapan
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