神の心臓

チア・シード

エレミヤ4:13-19   


鬼退治のお伽噺のように、正義が必ず勝つという現実を私たちは見ることは通常ありません。私たちの観念や理想が安易に実現することを期待するなら、まるで己れを神や独裁者にするようなものかもしれません。エレミヤは敵国に襲われることを予告します。今すぐではないかもしれませんが、緊迫した国際情況はいつそうなるとも知れない気持ちにさせます。
 
思う以上に敵の襲来は恐ろしいものです。かつての侵略は、今の時代のような国際的監視の下にはありません。大量破壊兵器はないものの、人権などの観念もないので、各国各民族の神々が正義の基でありましたから、その神が許すと宣言すればどんな残虐なことでも正義の名の下に平気で行うことが横行していた時代であったのです。
 
神の声が下れば、何だってできた。エレミヤはこの空気の中で預言をしています。エルサレムは壊滅する。軍事力からしてもそうなることは必定でありました。その中で、いわば呑気に道徳を説いているようなものです。心を悪から洗い清めよ、と警告して何になるのでしょう。ユダは間もなく包囲され、かつての北イスラエル王国のように滅びる寸前なのです。
 
正に風前の灯火であるユダ王国。エレミヤは、預言者の中でも異質に扱われます。よくある預言者とは違い、神に刃向かうしその預言者の内面や個性が詳しく描かれ知られています。しかしどの預言者とも同じように、神が悪いのではなく人間のほうに罪があり、それが闇の時代を招いたのだという価値観を基に計画を与え続けます。
 
普通なら、国が戦争で負ければ神の責任なのですが、イスラエル民族は自らに責めを負わせました。それは神を殺さないことにつながりました。この事態は人間の不信がもたらしたのです。しかしさらに注目したいことがあります。神がこの事態を見て、他人事のように考えてはいない、という点です。
 
神自身が腸をよじり、もだえ苦しんでいるのです。神が苦しんでいます。自分のことにように、いえ、正に自分のこととして、苦しんでいます。もはや共感という程度のレベルでなく、ユダの苦しみをそのまま自らの苦しみとして背負っています。神はイスラエルの親として、心臓が呻いています。その心臓の響きに、私たちは気づこうとしているでしょうか。


Takapan
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