北イスラエルへの愛

チア・シード

エレミヤ3:11-14   


エレミヤの目に映る北イスラエルは無残なものでした。ソロモンの後の時代、すでにその国はユダから分かれ、宗教的に別の道を歩み始めていました。独立の意味からも神殿を別に建てましたが、その時点で偶像へ走ったというのです。どうやら他の神々へと関わっていったようでした。
 
エレミヤに先立つ百年の昔、アッシリアの来襲で、北イスラエルは崩壊しています。統一国家めいた形がもはや取れなくなり、王は置けず、緩やかな部族のまとまりを呈しているに過ぎませんでした。有力なメンバーはアッシリアに引かれて行ったのです。カナンの地に残された民には、移植された移民による混血が進みます。
 
かろうじて一部の熱心なユダヤ教信仰者によりサマリア五書が、エレミヤの後百年を数える頃に編集され始めますが、ユダ王国から見れば、裏切りと背信の民族に見えたのだと思います。北イスラエルは、偶像や異教の神々の肥沃を約束する信仰に惹かれ、クーデターに明け暮れる政権交代を繰り返します。エレミヤはよくぞこんなイスラエル国を気にかけたものです。
 
背信とは言っても見棄てることをせず、南ユダの裏切りに比すならばまだ正しかったとまでエレミヤは弁護します。ユダ王国への批判ですが、ユダの裏切りという表現は意味深長に聞こえます。そこでエレミヤは、北イスラエルに向けてエルサレム神殿の神が呼びかけることをぶつけます。もう怒っていないから、立ち帰れと告げるのです。神は、神を棄てて背信行為に走った者を、いつまでも怒りの対象で終わらせはしません。
 
但し、罪を認めることだけは、求められていました。この罪は、ヘブル語でアーヴォーンです。時に「罰」と訳すこともできますが、創世記でカインが弟アベルを殺害した後、自分には負いきれないと言った罪が、このアーヴォーンです。罪から罰への一連の流れを含み示すことができる語です。
 
自分の中に根付く根本的なものと、それが惹き起こした害悪のすべてを認めるべしと勧告します。だから、立ち帰れ。向きを換えよ。ここにわたしがいる、と主が告げます。主が実に人間のほうに顔を向け、見上げた私たちと向き合ってくださいます。主は、高みに立って見下ろしているわけではありません。主自らはいまは手を下せないので、この次に牧者を与えると言います。
 
それから、エルサレムにおいて、ユダとイスラエルの民がかつてのように一つとなり、主を礼拝するということが預言されています。そんな中、エレミヤもまた新しい契約をイメージし始めています。その契約のもとにアブラハムの子たちは共に集い一つとなり、主を礼拝する幻を見ています。しばしの時を経て、やがて切り札イエス・キリストが贈られてくることになるのです。


Takapan
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