新しい契約と神の愛

チア・シード

エレミヤ31:35-37   


その日が来る。いったいいつ来るのでしょう。「その日」とは、どんな日なのでしょう。預言者は、それぞれに与えられたイメージを描きます。そのイメージは、あまりにもたくさんあって、豊で、すべてを挙げることができないほどです。誰の、どの描くものも成立するのでしょうか。その「日」は、カレンダーに示されるような「日」なのでしょうか。
 
世界中で「時」が異なっても、一定の何かある「日」ではあるに違いありません。これをなすのは「万軍の主」と呼ばれる方。この章は、エレミヤ書の中でも大切に扱いたい章です。エレミヤにおける「新しい契約」の姿がここに現れています。主に立ち帰るならば、豊かな祝福があり、それを約束する、と主が告げるのです。
 
その契約が果たされる日が確かに来る、というのです。この契約が、イスラエルの民と首都の間の絆であり、最後の接点です。そんなことが言われています。人の知恵が、神を上回るようなことはありえないはずですから、イスラエルを手放したり、放置したりするようなことはないはずです。そんな簡単に捨てはしないのです。
 
イスラエルの民は、この契約を基に、新たに主の民としてよみがえることができるのだ、というメッセージが、ここにあります。新しい契約を立てる、という表記の見られる31〜34節から説教がなされることが多いのですが、35節からを取り上げる人は、殆どいません。だから、今回の読み方は、冒険であり、また貴重な試みであるのだと思います。
 
もうイスラエルの罪を思い起こすことはありません。これからも主の民であり続けるのです。もう主の前から取り去られるというようなこともないのです。エレミヤは、力の限り、人々を神が愛しているのだということを、反語のように伝えようとしています。裁きよりも、ここはむしろ、神の強い愛を、余すところなく示しているのだと思われてなりません。


Takapan
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