新しい契約とは何か

チア・シード

エレミヤ31:31-34   


関根正雄先生の「エレミヤ書註解」によると、この有名な箇所も、元来のエレミヤの手によるものではないという説が強いのだそうです。エレミヤによるとする側でも、エレミヤがいつこれを考えたかについては諸説あり分からないのだと。イスラエルはかつての契約を破ってしまったから、新しい契約を結ぶのだ、と言っているわけですが。
 
出エジプトの時の契約、つまりモーセの律法は、整った形になったのが捕囚の前後であるというのが通説ですが、このエレミヤあるいは申命記も同時代となるので、古いも新しいもないような情況かもしれません。やはりかつての出エジプトの時の契約は、この民族の根底に流れ続け、しっかりと根付いていたに違いありません。
 
その上で、これがエレミヤの時から後の思想であったとしても、主を知れ、と教え合う必要もないほどに、主が民に君臨し主の支配が成り立っている様子を描いていることで、今の私たちにとっても受け止めるに値する神の声となっているように思えます。神の法は表面上のものではなく、私たちの心に記され刻まれていくのです。
 
罪は赦され、霧消する。エレミヤが放つこのメッセージは、当然イエスの時代にも知られていました。ファリサイ派も皆知っていたはずです。すると、あの厳格な律法への姿勢は、この新しい契約の福音を基に生じたものだったということになります。イエスが命を棄ててやっと成立した、さらに新しい契約のことを思うと、エレミヤの契約とは何だったのか。
 
エレミヤがイエスを告げたとするのは不自然です。だったらエレミヤの改革は何の意味もなかったのでしょうか。その日、イスラエルとユダは結びつくとも言います。新しいイスラエルと呼ぶのでしょうか。慰められる民は、本来選民イスラエルであったはずです。エレミヤは懸命に、とにかくイスラエルの復興を願っていたことは間違いありません。
 
けれども私は、私に引きつけてこのメッセージを受けてみたい。エレミヤの告げたことは、これから先のことかもしれないし、もう起こったことかもしれません。それでもなお、いまここで神を仰ぎ、歩み出す私たちのエネルギーとしたいではありませんか。いまがいつもその日であり、その日をいまと受け止めて、この契約を喜びたいではありませんか。


Takapan
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