新しい契約の系譜
チア・シード
エレミヤ31:27-34
契約は、人の世ではしばしば期限付きで締結します。期間が終わるときには、継続するならば更新されることになります。あるいは、情況の変化により、あるいは不都合な事態が生起したら、改定されることもあるでしょう。神とイスラエルの民との契約も、モーセのときのままに、ずっとまた一切変更されない、ということはないはずです。
もちろん、アブラハムと神との契約もそうです。契約は、個人でも集団でも結ばれます。十二部族としてのあり方は、ヨシュアを通しての契約が、大きな意味をもっていたようにも思えます。ダビデ王により神の慈しみを受け、後のユダ王国の王たちが、ダビデの故の祝福を受け続けていたのは確かでしたが、それもやがて限界がきます。
エレミヤの時代、ユダ王国もまた、国家的な危機に見舞われます。しかし「その時には、私はイスラエルの全氏族の神となり、彼らは私の民となる」(31:1)と言い、「安住の地に向かう」(31:2)との希望を告げます。主は「とこしえの愛」(31:3)を以て民に臨みます。道標に従って帰ればいい。さあ「その日が来る」とエレミヤは神の慈しみを代弁します。
かつては壊すために、民を見つめていた主が、今や「建て、植えるために」見張っています。父の罪が子に加算されることはないから、先祖の背反を以て、新しいイスラエルを罰するようなことはしない、そういう「新しい契約を結ぶ」のです。出エジプトのときの契約とは異なります。それは、すでに民が破ってしまいました。
いま、「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す」のです。「主を知れ」と教え合うようなことも必要ありません。「皆、私を知る」からです。これは、至って新しい形ではないでしょうか。けれども、イエスの時代、この契約がどうなっていたか、振り返るべきです。ファリサイ派の人々や律法学者たちのエリートはどう理解していたか。
モーセの律法とその注釈の解釈や実行に明け暮れ、それを守れぬ庶民を暴力的に支配していた、とイエスは非難していたのです。イエスは、驚くべき業により、救いを示すことになりますが、スピリットは、このエレミヤの契約に則っていたのかもしれません。「過ちを赦し」「罪を思い起こすことはない」ため、贖いの死を加えたのではありますが。