主が呼び集める民

チア・シード

エレミヤ31:10-14   


イスラエルの人々にとり、島々というのは世界の果ての象徴であったことでしょう。そこまで神の言葉が届けられるとなると、この神の力が全世界に行き渡るという理解するほかありません。エレミヤはそうして全世界へ向けて、神から与えられた言葉を語りつげるように命じられます。エレミヤ自身の思いが皆無かどうかは分かりませんが、これが預言者です。
 
ここは新しい契約を以て主が臨み、イスラエルを建て直すために、民が呼び集められる場面であると言えるでしょう。さあ、主が呼び集める。群れを牧する者、これが今の主の姿を現すものなのだ。この牧舎により呼ばれたからにはもう大丈夫。その守りの中で安全なのだ。豊かな暮らしが保証され、喜びの内で栄えることになる。
 
エレミヤは宴のような情景をふんだんに描いて、私たちを慰めます。もちろんそれは主から来るものであって、預言者の独り善がりの幻想ではないことが前提です。追い出されたその地、イスラエルに民は戻ってくる。この希望を語れる預言者は、エレミヤのほかにはいませんでした。一度痛めつけられはするが、回復する民により主の名が再び高められる、と。
 
そのように心をつなぎ止める役割を民は果たさなければなりません。幻は具体的に描かれます。抽象的な表現だと、人それぞれが勝手なイメージで想像し、ある者は過剰な期待を決めつけてしまうかもしれません。一人ひとりが思い違いの中で世界の主人公のように振る舞う危険も出てきます。実は、いまの時代がそうではないかと私は危惧しています。
 
聖書を知ると称する面々が、いとも簡単に自己中心の罠に陥り、傍目に見ていられなくなるような言動を繰り返していないか。むしろクリスチャンが見下しているような、迷える民のほうが、素直で健気で真意に適うような心を示し、行動に移していると思えることが度々あるのです。クリスチャンと称する者が妙な特権意識をもつ姿は、殆どファリサイ派です。
 
人は、口先でよいことを吐いていれば善良なのだとお思いか。教条を口にしていれば神の側についているとお思いか。どこそこの教会員であれば、有名な先生の話を聞いていれば、何をしてもよいのか。主はヤコブを救い出す、解放するとエレミヤは言いましたが、それは主の選んだ者を、という意味です。呼び集めるのは主であって、人ではないのです。


Takapan
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