時が満ちるのを待て

チア・シード

エレミヤ29:10-14   


バビロンに捕らえ移された同胞たちよ。その地でおとなしくしていよ。平安を祈り暮らせ。そう告げた理由は何でしょうか。もうそこで暮らすことしか生きていく術がないからでしょうか。けれども、かつてのイスラエルの祖たちも、各地で寄留生活を凌いできたのです。エジプトでの4世紀余りの歴史もありました。でも、必ず約束の地へと目が開かれます。
 
約束の地への道が、その都度拓かれました。それを踏まえて、エレミヤも言います。70年を待て。神から与えられた日数です。70年を数えたら、このイスラエルの地に再び帰ることができる、と力強く訴えます。それは、なんら根拠のない希望であるように見えました。「主の仰せ」とただ繰り返すよりほかには、何の理由も見当たらないのです。
 
先に、落ち着いた生活を続けよ、とアドバイスしていましたが、今度は、主を呼び、祈り、尋ね求めよ、と告げます。主を求めよ。生きる場の核心に、主がいるのでなければならない、というのです。そうすれば、かつてのイスラエルの繁栄も回復されることでしょう。あるいは、捕らわれた人々を帰らせることになるでしょう。
 
一つの条件付きの回復であるようにも見えます。主を信じるならば、という条件が言われているからです。しかし主の約束ということが掲げられると、単なる条件文であるというわけではないと思われます。人がどうであろうと、神の言葉は成就します。それは、人と神との間の関係の中に、そして交わりの中に、世界での事は起こるということです。
 
神は、人なしですべてを思いのままに成すことができるにも拘わらず、人と共に成すことを愉しみにしているかのようです。そこのところは、一介の人間に過ぎない私には、なんとも分かりません。そうである「火のように」見える、というだけです。「かのように」思われる、という程度です。信仰の世界には、この「かのように」が何と多いことか。
 
神の側では「平和の計画」というものがある、とエレミヤは知らせます。あなたがたを集める準備はできており、散らされたけれどもやがて再び集められるのだ、と。圧倒的な不幸のような情況の中でも、希望をもつことが許されています。いつか、時が満ちます。悔い改めて福音を信ぜよ、という荒野での叫びが響いてくるようです。


Takapan
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