その境遇で淡々と暮らして待て

チア・シード

エレミヤ29:1-9   


事の背景について、実に詳細に記されている珍しい箇所です。これはエレミヤからバビロン捕囚の人々に送られた手紙であるといいます。ゼデキヤ王が、エルアサとゲマルヤに託して届けたのだという説明。驚くべき記録です。原文を全部引用はしませんが、本当に細かな情報が並べられています。
 
エレミヤの預言が、王の権威を以て伝えられていることがここから分かります。エレミヤの言葉が、勅令のように宣言されているのです。本来エレミヤはそのような預言者ではありません。権力に逆らい嫌われ、主の前で主に従うのは嫌だと駄々をこね、喧嘩すら売ったほどでした。それでも権力者の前で主の言葉を伝えねばならぬ役目を引き受けました。
 
エレミヤの主との闘いが、ここで王のお墨付きとして実を結ぶのはどういうわけでしょう。王としても、自分のせいで捕囚とされて異国に連れていかれた優秀なブレインたちに向けて、何かしら慰めの言葉を差し向けないといけなかったという事情があるのでしょうか。王が保証する中で、主の預言者の励ましは何よりの宝だったのでしょうか。
 
エレミヤの手紙の内容は、バビロンで落ち着いた生活をするように、というのが主眼でした。70年の時を経て、また戻ってくるから、とエレミヤは告げます。誰もが疑うしかないような未来をエレミヤは叫んでいたのです。だからバビロンで愛国に燃え、焦って身を滅ぼすようなことがあってはならず、時を待てと言うのでした。
 
異国の町に連行され、ここで暮らせと奴隷同然の生活を強いられた仲間に対して、その異国の町の平安を祈るようにと伝えます。己れの主張を抑え、本音を伴う意志を表に出さず、じっと主の時を待つのです。占い師や偽りの預言者が主の名を用いてこれに反することを語っても、それは違う、従うな、とエレミヤは訴えます。主はそれを遣わしていない、と。
 
しかしこれは相手方からも同様に言えるもので、エレミヤは嘘をついている、と訴えられること必定です。人間は自分に都合の好いことを言う人を信用するものです。さあ、捕囚の民よ、どちらを信用するのか。いったい、適地での生活を強いられる中、淡々と日常生活が送られるのでしょうか。だが私たちは、この地上の世でそれをすべきだと気づきましょう。


Takapan
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