苦難の預言をこそ語るべし

チア・シード

エレミヤ28:12-14   


ゼデキヤ王の時代になったとき、エレミヤはついにその時を迎えたのだと自覚しました。象徴行動として、軛と横木を自らに課し、バビロンの王ネブカドネツァルの支配を受け仕えさせられることになと伝えるように、主から命じられます。これを見て、別の預言者ハナンヤが立ち上がり、2年の内にバビロンの支配が終わることを告げました。
 
エレミヤは、それはよいことだと皮肉めいた言い方で反論した上で、本当にその平和の預言が実現したなら、それは主からのものであろうけれども、そうでなければ違うのだと言い切りました。エレミヤ自身は、北から禍が来るという預言を外したことがあります。だから言葉を選んで、平和を告げる預言が外れるとそれはいけないのだ、と言っています。
 
つまり、危険に対して備え構えるというのは、外れてもよいのです。災害に対して私たちは自然とそうしています。備えあれば憂いなし。たとえ実際に台風が来なくても、台風に備えておくことは、損だとは考えないものです。しかし大丈夫だろうと備えをしないときに台風が来ると、この被害は甚大なものとなります。これはやはり拙いのです。
 
エレミヤの演じた軛を、ハナンヤは打ち砕きます。エレミヤはそれに対して争わず、すんなりとその場を去りました。負けたと思ったのでしょうか。それとも余裕をもち構えたのでしょうか。そこへ主の言葉が臨みます。ハナンヤに言え、木の横木は砕かれたが、代わりに鉄の横木を招くだろう、より厳しい仕打ちを受けてバビロンに仕えることになるだろう、と。
 
主は獣の世界までもネブカドネツァルに任せるほど、権力を与えたと言います。後にペルシア王キュロスを使って、イスラエル民族をまたカナンの地に戻しますが、その都度大帝国の王までも主は利用してイスラエルを動かし、あるいは導き、教育するのです。エレミヤはハナンヤに、主から命じられもしない、ハナンヤの死のことを告げるまでに強気でした。
 
果たしてその通りになります。主に逆らうか、主に従うかの分かれ目がそこにありました。主は厳しい仕打ちを人に与えることがあります。まるで悪に任せてしまうかのように見えることもあります。悪い事態や展開に人は、神はいないのかと叫びますが、目の前の悲惨さの背後に働く主がいることは、やはり見失うべきではありません。その意図は分からずとも。


Takapan
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