教会員に悪人だと突きつける

チア・シード

エレミヤ26:2-6   


エレミヤは、神殿で公にこれを語れ、と主に命じられました。やはりこの発言により、命を狙われる羽目に陥るのですが、権力者も宗教者も民衆も、すべての者が不快を覚え、エレミヤに敵対したというのですから、エレミヤはいわば天涯孤独な立場にあります。まさに主のみが自らの盾、主にのみ立場をもつ個人としてのエレミヤの真骨頂がここに見られます。
 
人々が受け容れない思想を預言する。ヨシヤ王の時代はまだ主の言葉を、王自身もそうだし、人々も聞く耳をもっていました。けれどもいまや、主の言葉をまともに受け容れる人がいないものとエレミヤは構えています。政策も間違っているし、律法を守らないのに守っていると自認した宗教者と民衆の態度が、実に悪辣だと睨んでいます。
 
エレミヤは、主の神殿に来た人々に向けて、これらの言葉をぶつけたのでした。礼拝に来た人々が偽りだと噛みついたのです。おまえたちは悪人だ、主の言葉に聞き従っているのでもないし、律法に従っているのでもないし、主が遣わしたエレミヤのような預言者の言葉にも耳を塞いでいるではないか。悪の道から立ち帰れば災いを下さないのに。
 
だからこの神殿は破壊されることになる。都は呪われたものになる。せめて悔い改めがあれば、なんとかそれは免れるのに、とエレミヤは吠えます。主からそう言うように命じられたのです。しかも「ひと言も減らしてはならない」との条件付きでした。聖書の言葉に付け加えるな、という場合もありますが、解説は加えねばならない場合があります。
 
それに対して、主から与えられた言葉を、伝える者が減らすということは、その誘惑にかかってしまいがちなことです。主の言葉を預かっても、自分に都合の悪いことは口に出したくなくなるし、人の顔色を見て、あるいは周囲の状況を見て、語るべきことを抑え、言わずに済まそうとすることは、確かに私たちにありがちなことだと思います。
 
ある部分だけは省略し、触れないでおく。そう、現代において私たちは、教会で「罪」について語るような説教を聞くことが少なくなりました。激減しているのではないでしょうか。しかし自らの罪、悪を意識することなしに、神の救いはありません。イエス・キリストの救いの力が現れることはないし、そもそもイエスと出会うことが不可能になるでしょう。
 
おまえたちは聞き従わなかった。エレミヤが強くそう言ったような説教を、私たちは受けているでしょうか。仲良し倶楽部の会合の場所のような教会堂で、礼拝する場だからと互いの全てを許し合うばかりになっていやしませんか。互いに裁きません、と笑いつつ麗しい関係のようでありながら、命のない甘いゆるゆるのだるさが漂うだけになっていないでしょうか。


Takapan
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