語る内容と自身の関係

チア・シード

エレミヤ24:5-7   


主の神殿の前に、いちじくの籠が2つ置かれています。エレミヤの目にはそう見えました。主によって見せられた景色です。何が見えるか、と主に問われ、エレミヤは見たままを答えました。主はその意味を説きます。対比させ、バビロンに捕囚とされた人々を良いいちじくとし、ユダの地に残った人々を悪いいちじくとするのでした。
 
ユダとエジプトの方面に残るということは、バビロニア帝国の侵略にに対して抵抗した側になる、ということです。イスラエルは周辺の大国のぶつかり合う位置にあり、しばしば大国同士の戦いの場にもなってきました。小国イスラエル自体に、それほどの魅力があったわけではないでしょう。しかし、イスラエルにはイスラエルの歴史がありました。
 
カナンにあったさらに小さな民族を蹴散らして、約束の地だと言って征服し占領した建国史です。そのイスラエルに、大帝国の攻撃に耐えうる力はもちません。大国同士が対立すれば、そのどちらにつくかで運命が決まります。エレミヤの見る情況の中では、バビロンへとおとなしく曳かれていった方がましだと考えられるのでした。
 
いま、捕囚として連行された後のことです。悲しい歴史です。神殿は破壊され、イスラエル文化が否定されました。高い精神性が、ただの物質へと還元されてしまったのです。優れた人材は悉くバビロンへと消えました。エレミヤは、実はバビロンへと行くことができず、ユダの人々に捕まり、エジプトへと逃れる集団の一員にされてしまいました。
 
自らは幸いな側から外れてしまった中で、このいちじくの籠を見せられているのです。いずれ再びこの地に還るという希望と共に、自身が再び主の民として立ち帰り祝福される民の中に数えられないことも、エレミヤには分かっていました。預言者は、自身の都合の好いように言葉を語るものではなく、真実を語るのでした。


Takapan
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