疑問文か肯定文か

チア・シード

エレミヤ23:23-24   


新共同訳は「わたしはただ近くにいる神なのか。……わたしは遠くからの神ではないのか」と訳しています。すると、人が身を隠したら神に見つからないつもりなのか、と叱責し、天地を主が満たしている、と宣言します。分かる人には分かるのでしょうが、私には意味が分かりません。この日本語が何を言っているか、理解しかねるのです。
 
遠くからの神である。隠れたら見えないことはあるまい。そう言われてもつながらず、満たしている、の目的語がありません。聖書協会共同訳は「私は、近くにいる神なのか。……遠くにいる神ではないのか」と訳しました。益々分かりません。新改訳2017は「わたしは近くにいれば神なのか。……遠くにいれば神ではないのか」としました。これなら分かります。
 
人間から遠く離れている神であることは認めます。遠くにいても、神は神なのです。人間はそのように認識すると、今度はこっそり神の目を盗んで、好き勝手に神のことを述べている輩がいるようだが、それに気づかないとでも思っているのか、と突きつけます。神は近くにようには思えない場合でも、ちゃんと見て知っているぞと言うのです。
 
というのは、この場面は、エレミヤがしきりに偽預言者を批判しているところだからです。偽預言者は勝手に自分の思想を、思いつきを、神の言葉だと行って人々に告げて、誤った神の言葉によって人々を騙している。それに対してエレミヤは怒ります。幾度エレミヤは、偽預言者と対決し、世の人々に真実なる主を証ししようとしたことでしょう。
 
しかしエレミヤは厚遇されることはありませんでした。悲しみの預言者と呼ばれるエレミヤは、エルサレムの壊滅を預言しなければならなかったことに加えて、世の人々に理解されず、非難を受け、犯罪者扱いされ、嘘つき呼ばわりされつづけた孤独な人生を歩んできました。それでも、エレミヤは主が自分が主の声を告げるのだと独り立ち上がります。
 
私は本当にあれは疑問文だろうかと思いました。肯定文で訳してはいけないのだろうか。つまり「わたしは近くにいる神である。……遠く離れた神ではない」と言ってみます。文法的に難しいことはよく分かりませんが、疑問文だとしても、反語的な用法であることは確実でしょうから、結論として肯定的な意味で全うされることになると思うからです。
 
近くにいるぞ。私から隠れた気になっても、たちまち見つけるのだから。スムーズにつながり、読みながらの不安感をなくなります。事実、調べてみると数多くの英訳の中には、このような肯定文で訳したものもいくつかありました。確かに少ないのですが、分かりやすく伝えるモットーをもつ聖書は、疑問文にせず、ストレートに内容を伝えていました。
 
偽預言者は、人々の顔色を見て、どう言えばよく思われるかを気にしていたと思われます。そして、これが神の意志だ、と言わんばかりに自分の希望的観測を示すなどします。思いついたことを、さも神の真理であるかのように言い放つのです。どう神などこんなこと聞いてやしないさ、神は遠く離れているのだから。そんなふうに構えているのです。
 
冗談じゃない。人の考えの届く世界、天地のすべてにあっても、主の目を行き渡り、すべてお見通しであるはずです。神の言葉を、真実を以て語らなければなりません。エレミヤの頭の中には、思うだけで腹立たしい偽預言者たちがいます。そう、いるいる。偽預言者は今の世の中でも吠えています。人間世界での権威を揮い、自らを誇って語るのです。


Takapan
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