自身の体験と神の言葉

チア・シード

エレミヤ21:8-22:5   


ゼデキヤ王が無視できず、気にしなくてはならないほどに、エレミヤの言葉は力をもっていたことが想像できます。もはやにっちもさっちもいかない状況になっていたユダ王国の情況でした。この期に及んでではありますが、王は神に頼らざるをえなくなっていたのです。それほどにバビロンの攻撃は脅威となっていたのです。
 
その主への思いが「主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません」(21:2)のように「かもしれない」であったことは注目に値します。エレミヤに対する遠慮のような気持ちからこのような表現をとったのでない限り、これは神に対する不信仰を露呈するものとなってしまうでしょう。
 
エレミヤ書による綴りは、ネブカドネツァルではなく、ネブカドレツァルです。地名や人名の綴りは一定しないことが多いので、その点での問題はないのですが、記した時代や環境などを知るひとつの理由となる可能性はあります。エレミヤは、カルデヤ人つまりネブカドレツァルのバビロン軍に降伏すること、それを王から民へ伝えることを以て返答とします。
 
これが命の道であるのでした。バビロンに下手に逆らって立ち向かうことは得策ではないというのです。命の道と死の道を主は置きます。これを突きつけるのです。そして主が顔を向けるのが災いのためであるという厳しさがそこにあります。エレミヤ自身、この都からは酷い扱いを受け続けてきました。その思いが一気に吐き出されたかのようでした。
 
このような情勢になったのは、基本的王家の責任でした。上に立つ王は、国民の運命を左右します。他の預言者と同じくエレミヤは公正を問います。公義といった正しさが必要とされます。さあ王に伝えよ、と使者に告げ、弱者を助けよと命じます。せめて虐げることを止めよ。無実の人を殺すな。これはエレミヤ自身の叫びでもあったことでしょう。
 
預言者として厳しい迫害に遭い続けたエレミヤが、主の言葉を告げる時の重みというものがここに感じられます。福祉的な観点のために、弱者を助けよと私たちは読みますが、これは国難にあっての、正義の宣言なのでした。私たちはどうでしょう。助けているでしょうか。蔑ろにしていないでしょうか。苛んでいないでしょうか。
 
ネブカドレツァルとは誰でしょう。主は異教の敵を利用してまでも、主の計画を実現するわけですが、主の思いが必ず成るということは、弁えておかなければなりません。そしてエレミヤのように主の言葉を、たとえ自分の立場や経験から納得できるような感情を交えるものであったとしても、発していかなければならないでしょう。一人ひとりが預言者として。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります