神へのクレーマー

チア・シード

エレミヤ20:7-12   


主の命ずるままに預言をし、エレミヤは主の神殿の庭に立ちます。この都、この全ての町に「災いをもたらす」(19:15)とのメッセージを、すべての民へ送ります。人々は主の言葉に従おうとしませんでした。これを見た「主の神殿の責任者で監督者でもある祭司イメルの子パシュフル」(20:1)は、エレミヤを捕らえ打ち、門で足枷に繋ぎました。
 
幸い翌日解放されましたが、エレミヤはユダの捕囚とパシュフルの不幸を預言します。ただエレミヤは、それですっきりした訳ではありませんでした。こうして「笑い物」となる私は何者なのか。預言者が主に刃向かう場面など、前代未聞です。私には預言なんてとてもできません、と遠慮するくらいなら、イザヤやモーセの事例が見られるのですが。
 
自分には預言するなどという重荷は負えません、そんな抵抗とは違います。「主よ、あなたが惑わしたので/私は惑わされました」といきなりぶつけます。あんたが騙したのだ、と噛みつき始めます。尋常ではありません。預言者らしからぬ行為です。だから、私はエレミヤが好きです。エレミヤを丁寧に辿った物語を小説仕立てにしたこともあります。
 
直情的なところがありますが、苦情を飾ることもなく主に真正面から訴えています。ちゃんと主の方を向いています。主の前に立っています。「主の言葉が私にとって、一日中/そしりと嘲りとなる」と嘆きつつ、「もう主を思い起こさない/その名によって語らない」と決意を示すなど、いじけたような態度もとりますが、実はそうではありません。
 
「主の言葉は私の心の中/骨の中に閉じ込められて/燃える火のようになります」と言わざるをえません。聖霊の力は、人間の不満や意地で抑えられるものではないのです。「押さえつけるのに私は疲れ果てました。/私は耐えられません」と、いつの間にか主に対して降伏の声を挙げています。いつまでも聞いていたいほど面白いエレミヤの言葉です。
 
これだけ神の前で言えたら気持ちよいでしょう。親しかった者たちもエレミヤがつまずくのを待ち構えています。少なくともエレミヤはそう感じています。でも、だ。「主は、恐るべき勇士のように/私と共におられ」るので、敵は恥辱に至ります。主は復讐なさる。さあそれを見せよ。「私はあなたに向かって/私の訴えを打ち明けたのですから」。


Takapan
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