主が勝利する

チア・シード

エレミヤ20:7-13   


ヨブの物語は、サタンが道化役を演じていたようにも読めます。災難の原因が擬人化されて、敵がはっきり見えるように打ち出されていました。しかしエレミヤは、そんなおとぎ話めいた解決法を知りません。私たちと同じで、いま置かれた情況にあっては、どうすればよいのか分からず、全く信仰の中に佇んでいるようなものでした。
 
その中でも、エレミヤは主にしっかりと向き合っています。ここが大切です。エレミヤは主と対峙しています。主の前に出ています。あなたの勝ちだ、私は負けだ。他の訳では後者は、私はもうできない、無理だという思いで表現されています。どだい神と戦って勝ち負けを競うなどといった考えが成立するわけがないのです。
 
これだけ大胆な声を神に向ける預言者を私は知りません。それほどエレミヤは主の立てる波に揺さぶられ続けてきました。主に従ってきたのは確かですが、周りの人間は自分を責め立てるばかりです。それは不法だと一日中叫び続けてきたし、批難ばかりを受けてきました。ああ、もう主の名によって語るようなことはやめよう、と何度思ったことでしょう。
 
しかし主の言葉は、火のように燃え上がります。抑えようと意図しても、そんな私の力では適いません。私の負けです。腹心の者たちも、私がしくじるのを待ち構えています。その冷たい眼差しは、どんなにか気味の悪いものでしょう。それならもう預言などやめてしまえばよいのに。エレミヤの中にそんな葛藤があったのではないかと思います。
 
これは誰かに命じられたり強いられたりしてやっているのではありません。私はそうせざるをえないのです。そうすることが私のアイデンティティであるのです。そう思うエレミヤは、もはや孤独ではありません。これほどの辛い経験をしてなお、いやしたからこそ、主が共にいますと断言できるのです。これが信仰というものです。
 
人は私に勝つことができない。私は主には当然負けるが、人に負けることはない。どんなに私を迫害する者がいても、私には勝てないのだ。エレミヤはそう確信します。私が勝つと言いたいのではありません。私と共にいる主が、すでに勝っているのです。エレミヤは主を賛美します。すべての戦いは、神への賛美で幕を閉じることになるのです。

Takapan
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