沈む心の狭間に輝く信仰

チア・シード

エレミヤ20:11-13   


神殿の祭司の子パシュフルによって、エレミヤは足枷を付けられ、ベニヤミンの門につながれました。翌日解放されたものの、エレミヤは、バビロン捕囚とパシュフル自身の運命を預言して言い渡します。そこからエレミヤの祈りが始まるのです。主に惑わされてこのような酷い目に遭わされるのだ、と主に文句を言う件は有名です。
 
その告白は、ついには自分の生まれた日を呪うところへ結ばれていきます。これではまるでヨブのようです。神に文句を垂れ、生まれなかったほうがよかったとぼやく。どうしようもない荒れようですが、それらに挟まれて、珠玉のような祈りがここにあります。ほのかな温もりが放たれているようにも感じられます。今日はそこに注目します。
 
エレミヤは、自分が主に惑わされてこうなったこと、人々に中傷されていることを訴えましたが、なお「しかし主は」と切り返し、さらに「私と共におられます」と、主を見上げています。どんなに自分を迫害する者がいても、勝てやしないのだ、と言い切るのです。恥辱は彼らの上にこそ与えられる、迫害する者は自ら恥を受けることになるのだ、と。
 
それに対して、エレミヤ自身は主に向かって訴えています。主はそれを聞きます。それ故に、主が私に代って彼らに復讐をされるのだ、と言います。エレミヤだけの力では、彼らに対して何もすることができません。しかし、エレミヤには、主が共にいます。共にいる、というのは、主がエレミヤに追随するということを意味するのではありません。
 
むしろエレミヤが、主の立つ側に寄せられている、ということです。自分が主に導かれている。その力によってこそ、主の言葉はこれだ、と語ることができます。否、語ることしかできないのです。それしかやっていないのです。もはやエレミヤは、主を賛美するしかないのであって、主を称え歌うことしかしていないのだ、と祈る声を上げるのです。
 
エレミヤは「貧しい人の魂を、悪をなす者の手から救われた」と告白しています。つまり、自分は「貧しい人」なのだ、ということです。貧しい人は幸いだと言ったイエスの言葉の一つの陰がここにあるのではないでしょうか。しかしそれでも、生まれない方がよかった、という言葉が流れるほどに、預言者エレミヤはいたく傷ついていたのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります