神の言葉はためらわず

チア・シード

エレミヤ1:4-12   


私はまだ若い。語る術を知らない。エレミヤはこのとき若者であったということは定説ですが、年齢がどうであるかを定めずに読む道もあろうかと思います。私たち一人ひとりがこのエレミヤと同じ声を聞くことを可能にするためです。それが主の言葉であること、主からの言葉であること、それが重要であり、それを受け容れることが求められています。
 
自分はこの神により造られ、特別に扱われてきました。どこが特別なのだろう、と思う人がいるかもしれませんが、特別であるということは、その人自身が一番よく知っているはずです。かけがえのない自分の命、生きていること、その人にとりそれがすべてであるという存在を知るからです。その存在には愛があることをも覚えるでしょう。
 
エレミヤは、神の言葉をさらに拡大していくスピーカーとしての役割を告げられます。相手が誰であれ、神の命じるままにすべて語れと言われました。そう、すべてです。ためらう必要はありません。これを発すべきか否か、判断に迷わなくてよいのです。神が示し与えるものは、悉く知らせるとよいのです。ある意味でそれは簡単なことです。
 
私の側で選別をしなくてよいのです。あとは主が責を担ってくださいます。でも、本当にそうだったらよいのに、などとこれまでもどんなに考え悩んだことでしょう。ひとを傷つける言葉がこの唇から零れたからです。けれども、イエスの口から出る言葉も、幾多の人々を刺すものがありました。怒らせることもありました。
 
その主が言葉を授けたのであれば、ためらうことはありません。私から発するのではなく、上より新しく注がれてくる知と心とは、必要な言葉として特別に扱われているはずです。それは世界を壊すような言葉であるかもしれません。しかしまた、もしかすると、世界を建てる言葉となるかもしれません。神の言葉には様々な力が具わっています。
 
春を告げるアーモンドの枝が、見守るという言葉と重ねられて、主の言葉が現実となることを見つめ、見守っています。神から言葉を預かる者として、エレミヤもそうあれと召し出されます。私たちも、召されています。神の言葉は実現するものとして放たれていますから、それを担っていると思うなら、ただそれを告げればよいのです。


Takapan
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