今日も預言者が呼びかけられている

チア・シード

エレミヤ1:1-10   


エレミヤという預言者が、克明に記録されているわけではありませんが、その生き方はその言葉からよく窺えます。歴史的事件を頼りに捉えると、60年間ほどの預言者活動があるように見られますが、その生涯の数々の危機を考慮すると、よくぞ長きにわたって生きて活動できたものと驚きます。神の守りがあったのでしょう。
 
複数の実在人物の経験を、エレミヤという一人の名前で記録して遺したのだろうか、と疑いたくなるほどです。若い時に、エレミヤは神の声を聞きます。こうした神からの呼びかけは、いつでも唐突です。「エレミヤよ」と名を呼ぶようなことはありませんでした。いきなり「胎内に形づくる前から知っていた」と突きつけてくるのです。
 
この主がエレミヤを形づくったことは、改めて説明する必要もないくらい、当たり前のことでありましょう。その上で、「知っていた」と念を押します。深い交わりと友好とを思わせる表現です。すでに特別な存在として、神はエレミヤを選んでいたと言います。「諸国民の預言者としたのだ」というきっぱりとした宣言は、むしろ清々しいものです。
 
神の側では、もう事が決まっていました。「そこで私は言った」というのが、エレミヤ側の言葉です。「ああ、わが主なる神よ」と始まるのですが、「私」としかここまで名乗っていない神を「主」と呼ぶというのは、すでにそれが「主」という神であることが分かっていたためでしょうか。文化の背景に、それは大前提であったのかもしれません。
 
「私はまだ若く/どう語ればよいのか分かりません」との返答は、本当にとても若かったからでしょう。ここから神は、立て続けに、エレミヤを助けるための説明を始めます。それは、私たちキリスト者も等しく告げられている言葉である、と認識しなければなりません。私たちもまた、どう語ればよいか分からないのです。しかし、言葉が与えられます。
 
「命じることはすべて語れ」と、相手が誰であれ、「恐れてはならない」ことを教えます。エレミヤの口にその手を触れ、主の「言葉を授けた」のです。そうして「今日」、預言者は、すべての人間の上に権威をもつ者として、任命されたのです。キリスト者は、偉ぶらないことを戒めとしつつ、やはりこの権威を授けられているのだと思います。


Takapan
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