召命の権威

チア・シード

エレミヤ1:1-12   


主の言葉がエレミヤに臨みました。これには一定の期間がありました。召命がまず突然来たというのは分かりますが、これが捕囚まで続いたとされています。主の言葉を聞くその終わりが示されているのです。預言者があるときを以て、主の言葉が来なくなるということがあるのでしょうか。おそらくこれは、エレミヤの死を意味しているものと思われます。もしくは、エレミヤの預言の記録がそれ以降ないということかもしれません。エレミヤは捕囚の最中、ユダヤを逃げる集団に引き入れられるのです。
 
エレミヤがまだ若い時に、主の呼びかけがなされていました。しかしその前からすでに主は彼を選んでいました。そしてある機に、主はその使命をエレミヤに明らかに示したのです。知らせることをすべて語れ、と。おまえと共にいる、という言葉は、人間的な万の軍よりも頼もしいものです。
 
語るべき言葉を、ひとは知りません。しかし主の手が口に触れるという体験を通して、若いエレミヤは何を語ればよいかと察知するようになります。「今日」主の権威がエレミヤに与えられ、預言者として立てられたのだと言われています。この権威の力は、世のものを壊すことも築くことも思いのままとなります。エレミヤはその生涯を、人に背かれ虐げられもする中で送りました。これは、この約束と合わないのではないでしょうか。
 
ひとの目には、約束は違(たが)っていますが、神の目から見たときはどうでしょう。神はエレミヤに何かを見せようとします。問いかけて、何が見えるかと言いました。エレミヤは、アーモンド。幻かどうか知れません。言葉のシャレを、旧約聖書は創世記から使います。アーモンドに似た響きで、神が見張っているはたらきをエレミヤに教えます。自分の言葉を成し遂げようと見張っているというのです。
 
そもそも神の言葉は、そのまま現実となる故に神の言葉なのでした。認識と対象の一致と西欧的な哲学的真理観は捉えますが、ひとにはそれは不確定であるにしても、神においてはそれは当然のことでした。ただ神は、同時的にそれを一致させるかどうかは分かりません。時を置いて、その言葉はいずれ実現します。それを見つめているということなのでしょう。
 
私たちも、その実現を見張っている必要があります。その成し遂げられる様を目撃し、証人となるためです。そのように預言者もせよという模範を示すのです。見張ることが、その事業に加担することになります。見ているだけで何もしていないではないか、と思われるかもしれませんが、目撃証言は与えられた責務です。目を覚ましていなければならないからです。
 
イエスは私たちに、目を覚ましていなさいと度々忠告しました。神の約束の成ることを見つめること、それが神の業であると証言することが求められていたように思います。また、神ならぬものの業に引き寄せられず、その色に染まらず、主が共にいる者であるために、この姿勢が必要だったのです。「今日」、私のもとへも神はこの権威を、実は授けているのであって、使命感を覚える者を、神は待っているはずなのです。


Takapan
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