一途さに触れて

チア・シード

エレミヤ17:9-13   


主は人の思いを知る。心を探る。表面だけの問題ではありません。主は私の心の奥に潜むものを、手を突っ込んでまさぐり、日の下に明らかにするのです。ここで表に出されるのは、不正に富をなす者です。ルカによる福音書で、不正の富を用いてでも友を作れという、理解困難な譬をイエスがぶつけたことを思い起こします。
 
もしかするとエレミヤのこうした記述を、イエスは弟子たちに思い出させたのかもしれません。さあ、分かるか、とにやりとしながら言ったのかも。富を失ってしまうようなこの愚かな振舞いでも、助けてくれる友を生み出すとなると、命を得ることになるのだと教えたかったのでしょうか。もちろん、これは私の単なる想像なのですが。
 
エレミヤが指摘したのは、命の水の泉である主を見つめており、それを棄てることの愚かさ、ここです。エレミヤの言葉は時に断片的であり、何を意図して誰に言っているのか分からないこともあります。ユダの審判を言い放ったかと思うと、主にあって実を結ぶ人を祝福もします。どちらか一つだけを安易に決めつけて都合良く解釈しませんように。
 
この挑戦的な問いかけを、今私へ向けて突きつけられたものとして受け止めることは、どうしても欠かせません。エレミヤは、主に刃向かい文句も言う人としてよく知られています。しかし、栄光の主の座を決して見逃すことはありません。まっすぐに主を見上げ、視点を外しません。その意味では、ダビデの一途さを彷彿とさせると言えるでしょう。
 
ダビデは弱かった。誤りがありました。人格的にどうかとも思われる一面がありました。しかしエレミヤはその意味で、過ちに包まれていた訳ではありません。躓きながら、裏切られながら、しかし預言者仲間や主に助けられながら、イスラエルへ向けて、これぞ主の言葉だ、主の心だと明けても暮れても叫び続けたのでした。
 
時に惨めであり、哀れでさえありました。このエレミヤの姿をこそ、一途と呼ばないでなんと呼びましょうか。自分の幸福や救いよりも、民の救いのことのほうを心配していたエレミヤ。その利他精神というものに気づくと、改めて、それがなかなかできないことであることに驚きます。いえ、この一途さは、私たちにも、きっとできるはずなのです。


Takapan
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