呪いと祝福について

チア・シード

エレミヤ17:5-8   


祝福の道と呪いの道を置く、という申命記のスタイルは、預言者の言葉にも受け継がれていました。ヨナのように物語として順踏んでいるわけではないため、エレミヤ書は、様々な編集を経て成立していることにより、背景については十分な確証を得られないことがあります。でも、エレミヤの心の状態は、いまなんだか沈んでいるように感じられます。
 
もちろんエレミヤは、ダビデのように主から視線を外すことがありません。けれどもそれ故に、イスラエルの人々とは視野が合致しません。いわば、浮いているのです。いまエレミヤは、「呪われよ」と「祝福されよ」との二つの方向性を、対照的に掲げます。人々がどちらを選ぶのか、どちらを採ればよいのか、は私たちからすると一目瞭然です。
 
しかし、エレミヤ自身の確信を強めたいために、改めてはっきりと掲示しているようにも思われます。主よ、こうではないのですか。古来イスラエルは、このように教えてきたのではなかったのですか。だからこの苦境に遭って、この私は、あなたに祝福される道を歩んでいる、と言ってはいけないのでしょうか。
 
私たちは、気をつけなくてはならないことがあります。いつの間にか、自分が常に神の側にいて、正義の味方であるかのように思い込んでしまうことです。「だって、聖書にそう書いてあるでしょ」などとも言い訳して、自分は必ず正しいと胸を張る。「私は信じていますから」と。けれども、それは殆ど逆方向の傲慢であるのです。
 
罪を赦してください、という祈りを、私たちは自分から少しも離してはなりません。「呪われよ」とは、他人のことを指すものではありません。自分の中の罪の性質のことです。エレミヤは、他人を想定しているのかもしれませんが、私たち受け手は、これを神からの言葉として読んでいます。いえ、「私たち」ではありません。「私」です。
 
「祝福されよ」は、ここから求めるべきなのです。詩編の初めにあるような「水のほとりに植えられた木」であるかどうか、自分を省みるとよいでしょう。どんな実を結ぶでしょうか。いまは貧しい状態であるかもしれませんが、そのために「主を信頼する人」となろうとしているかどうか、改めて己れのことを点検するがいいのです。


Takapan
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