痛みを以て叫び続ける預言者

チア・シード

エレミヤ17:5-18   


対比させて述べると、分かりやすく伝えることができます。しかし、対比で考える癖がつくと、物事をあまりにも単純に二分してしまうことになりがちです。主から呪われよ、とエレミヤが断ずるのは、人間ばかりを信頼してしまい、主から心が離れてしまう人を表しています。他方、祝福されるのは、主にこそ信頼する人のことだと言います。
 
主を拠り所とするゆえに、暑さの中を耐える木のように、水が涸れることのない根に植わっているのだそうです。聞く者が誰も納得するよう、明確な比較を以て二分しています。ところが、これに続く箇所で、エレミヤの眼差しはそのうちに一つに傾いていきます。主を捨てる、つまり主から心が離れ去った者が中心に取り上げられるのです。
 
時にユダ王国がそうであったから、というのがエレミヤの見解なのでしょう。エレミヤは神から声を聞きました。それを人々に訴えます。でも人々はエレミヤの言葉に耳を傾けません。いくら叫んでもエレミヤは無視され、非難され、拘束され、命すら狙われます。それでもエレミヤは叫ぶことを止めません。止めることができないのです。
 
人の心が偽り始めたら、治しようがない。諦めめいた言葉すら吐きますが、それでも訴えます。不正な富をなす自分に気づかないのか。主を捨てている自分を意識できないのか。神からすっかり離れていることに気づかないままでよいのか。主が命の水の泉であったではないか。その水のほとりにあれば、枯れずに実を結ぶこともできたのに。
 
エレミヤはこの後「主よ、私を癒やしてください」と願います。叫び続けて、エレミヤは傷ついたのです。同胞の悲惨さを指摘し、自己認識のできない有様を嘆くものの、少しも顧みられないことで、預言者はいたく傷ついているのです。それでもその立場から「逃げたことはありません」と言います。自分は主に留まるのだ、と決意するのです。


Takapan
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