任務から逃げない

チア・シード

エレミヤ17:14-18   


私の癒しは、主によってなされます。私の救いは、主によってなされます。自分で自分のことができる、という近代人の思い込みは、昔からあったものです。エレミヤは、己れの処遇を主に委ねました。というより、主が握っているのだという前提があるところからしか、出発ができないのです。エレミヤと神との間には、そういう絆があるのです。
 
しかし、それを脅かすものもいます。敵です。エレミヤを攻撃するのは、実のところイスラエルの大多数の者です。エレミヤは孤独なのです。「主の言葉はどこにあるのか。さあ、それを実現させてみよ」と、せせら笑うように迫る人々がいます。確かに神の言葉は空中に消えるようなものではなく、必ず実現するということになっています。
 
というより、もうすでに神の言葉は現実なのです。それを逆手に迫られるようなことが、キリスト者にはありがちです。けれどもエレミヤは、牧者あるいは預言者としての立場から逃れたことがありません。エレミヤの唇から出たものは、いつでも主の前にあるのだ、といいます。これは主からのものなのです。
 
主よ、あなたは私の逃れ場。私を迫害する者とその恥の中に置かれているのですが、敵と自分とを常に対比しつつ、神の前のそれぞれのあり方を問うています。慄くのは自分ではなく奴らです。打ち砕かれるのは奴らなのです。この激しい呪いのような言葉は、一歩間違えれば傲慢になりますが、エレミヤの場合は神への信頼の中にあると理解できます。
 
エレミヤと神との間にあるつながりは、この主張を正当なものとして表しています。「あなたに従う牧者であることから逃れたことはありません」というのは、なんだか異様な意志であるように思えます。主に文句を垂れたエレミヤですが、少しも逃げてはいませんでした。与えられた使命を少しも疑わず、それを全うしたのです。


Takapan
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