預言者の言葉は聴かれない

チア・シード

エレミヤ15:6-9   


エルサレムが主を捨てた。人間のほうが、主なる神をに背き、従わなくなりました。そのため主はエルサレムを滅ぼすというのです。なんとも簡単な論理です。まるで子どものケンカみたいにすら見えます。そんな理屈が、どうして神と人との間にできてしまったのでしょうか。このくらいのレベルの争いなら、誰にでもデッサンできるではありませんか。
 
神が憐れむことに疲れた、そんなことがあるのでしょうか。しかしこれを叫んでいるのは、人間たる預言者エレミヤです。疲れたのはエレミヤではなかったでしょうか。預言しても人は聞きません。むしろ罵声を浴びせ命すら狙ってきます。それでもなお、与えられる上よりの言葉を叫ばざるをえないエレミヤでした。彼が疲れ果てたのであるなら、分かります。
 
すでに壊され、荒れ果てた都エルサレムの姿に、後世の筆者がここを加えたのではないか、と推測されるかもしれませんが、エレミヤ自身の声であっても全然構わないと思います。籾殻のように人々が篩い分けられ、死の拡散により男たちの命が奪われていきます。女はいくら子を産んでも皆失われてしまいます。不幸の預言は当時の恐怖を伝えています。
 
これらの表現が、どのような背景により持ち出され、それが何を意味しているのか、一つひとつ調べれば、ある程度できるかもしれません。でも、そんなことをしてもつまらないような気がします。私たちの文化に響いてこないものは、私たちが頭で知っても、結局他人事のようにしか思えず、何の意味もないように思われてならないからです。
 
もしかすると、キリスト者はエレミヤであるかもしれません。叫んでも、呼ばわっても、ちっとも聞いてもらえません。神はこう言われる、聖書はこう告げている、そのように伝えようとしても、少しも届きません。いえ、実のところ、キリスト教徒を名のる人々に対しても、そうなのです。クリスチャンであれば分かり合えるなどと期待してはいけません。
 
箸にも棒にもかからない、自称クリスチャンなど、掃いて捨てるほどいるのです。毒麦を疑い排除する必要はありませんが、ひとつ見分ける方法があります。自らこのような籾殻ではないのか、と問おうとしない者がそうなのです。こう自省しない者は、己れを神とし、他人を批判ばかりして傲慢に嗤います。ああ、エレミヤの言葉を聴く者となりたいものです。


Takapan
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