孤独と孤立

チア・シード

エレミヤ15:15-21   


エレミヤは孤独でした。人々の中でたった独り、国難とその理由を叫んでいました。それしかすることはありませんでした。けれども主はこれをすべて知っている。その確信はありました。エレミヤは人々の間では孤独でしたが、主が共にいることを疑いはしませんでした。独り立っていたわけではないので、ここではそれを孤立してはいなかった、と表現します。
 
それでも、せめてエレミヤに、教会のような共同体があったら、という同情心は湧きます。バルクという弟子めいた人はいましたし、かくまってくれる人もいました。主の下にあれば、何らかの助け手は具えられるものです。神からの言葉を発信する道はきっとあります。だからエレミヤは今日も、明日も、国を憂いつつ天を見上げます。
 
主の御言葉をこそ求めているというエレミヤは、がつがつとそれを食べたと言っています。言葉への渇きです。それが欲しかったのです。私たちもそのようであるでしょうか。喜び躍るようなものとして、神の言葉を受け止めているでしょうか。主の名と共に呼ばれるような存在であるでしょうか。
 
エレミヤは、主の手の内で独り坐っていました。やはり孤独感はあります。主に向けて、何故、何故、と問い続けていますから、エレミヤとて、満足していたわけではないのです。けれども、問いかける相手としての主がそこにいます。その意味で、独りで立っているのではないと考えたいのです。
 
エレミヤは主に向き合っていました。従いのです。関わりを保ちたいのです。無関心でないからこそ、問いかけるのです。そのためエレミヤには、主からの返しがあります。帰りたいか、ならば帰ることができる。考え無しに語るのでないなら、おまえは主の口として語ってよろしい。人々に妥協するな。イスラエルこそ、エレミヤの許に立ち帰るべきなのだ。
 
イスラエルの民は、エレミヤから語られる神の言葉を聞いて、主なる神のところに立ち帰らなければなりません。この立ち帰るということこそ悔改めです。救いです。エレミヤよ、おまえは敗れはしないのだ。主にあって守られ、勝利するしかないのだ。わたしはおまえと共にいる。おまえは自由になり、救いをまとうのだ。主はエレミヤを独り立たせはしません。
 
主にあって語るとは、このエレミヤのように悩み、もがき苦しむことなのかもしれません。主の言葉を食べなければ生きていけない立場。パンだけでなく、神の口から出る言葉によって生きると言えるのです。私にそのエレミヤの気持ちが分かるだろうか。この恵みの力に呼ばれ、近づいているのだろうか。私もまた、孤立するようには少しも感じないのであれば。


Takapan
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