孤独な預言者

チア・シード

エレミヤ15:10-21   


預言者は孤独です。このイメージを強く与えたのがエレミヤかもしれません。旧約聖書の中には、預言者集団を示す記述があり、後継者や弟子がいることも度々でした。エレミヤにもバルクという筆記者がいたものの、社会に対しては完全に孤立していました。しかも相当に辛い目に遭うことが続くので、人生は損ばかりだと思わされても仕方のないところ。
 
エレミヤは社会を敵に回して攻められるもので、神にも駄々をこねるように反抗すらします。そうして立ち上がりますが、それでもまた捕らえられ、命からがら脱出するようなことになります。最後にはエジプトに逃げるなどバカだと叫びながらも、無理やりエジプト行きの列に引っ張られていくなど、災難もいいところです。
 
いままた、身動きが取れない状況にあるようです。あれほど主に従い、敵のためにとりなしをしたというのに、こんな辱めを受けるだなんて。神はイスラエルをどうするか、もう決めていることをエレミヤは知っています。捕囚の運命は避けられないのです。人々にそれを告げるので、また嘲笑され呪われもします。捕囚を先に受けたのはエレミヤでした。
 
エレミヤは、主の言葉を貪り食ったといいます。他に選びようのない中で、することはもうそれしか残されていませんでした。私たちは豊かな選択肢をもちます。目移りします。神の言葉すら、多くの候補の中の一つに過ぎません。神の言葉が自分のものになった、とエレミヤが言うとき、むしろエレミヤが神の言葉に呑まれたかのように見えます。
 
神の名で呼ばれるからには、そこにいるのは単なるエレミヤではありません。たしかに、心に刻まれた傷は重く、深いものです。憤りが治まることはありません。しかしそこに主が現れて呼びかけます。元に帰りたいか。ならばそうさせよう。口を慎め。神の言葉をこそ語れ。余計なことはほざくな。そうすれば神がおまえの口を通して語ろう、というのです。
 
新共同訳は、「あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」と、人々こそエレミヤの許に帰るような書き方をしていますが、他の訳では、エレミヤが他の人のところへ「帰ってはならない」と禁止命令のように書かれています。そうなのかもしれませんが、私は新共同訳の訳に味わいを覚えます。
 
人々が神に帰らなければ、預言者としてのエレミヤの存在価値がありません。そして、「あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」とは、いかにも逆説めいた表現となっていますが、これにエレミヤ自身、目が開かれたのではないでしょうか。主が共にいて助ける、救い出す、それをリアルに頼もしく感じたのではないでしょうか。

Takapan
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