旱魃の危機に祈るエレミヤ
チア・シード
エレミヤ14:1-9
「旱魃のことについて」とテーマが明らかにされています。日本で旱魃ということは、いまでは想像がつきにくいと思います。しかし江戸時代までは、飢饉が幾度もあり、それでも経済を回すために武士は農民から年貢を取り立てます。よくぞ農民が消滅しなかったものと思いますが、とにかく日照りが続く天候には、雨乞いの他為す術がありませんでした。
人間の活動と生命には、大きなダメージが与えられました。エレミヤにとってこの天変地異は、ただの自然現象ではありませんでした。主の業であり、人間はそこからメッセージを受け取らなくてはなりませんでした。いくら貴人であっても、召使いを水探しに送ったところで、水が手に入ることはありません。金も権力も無力です。
金を積んでも権力を誇っても、生命活動の基礎そのものが満たされることはないのです。「彼らは恥じ入り、侮辱され、頭を覆う」しかないのです。もちろん、農夫たちも苦しい。でも身分の高い者たちとて、いくら農夫を縛り上げても、何も食糧が転がり出てくるはずもありません。これは「私たちの過ち」だとエレミヤは理解します。
これを「不利な証言」だと認めるエレミヤ。私たちの罪は、まずそれを認めるべきものなのです。「私たちは罪を犯しました」と告白しなくてならないのです。その上で、主がそれを赦して助けてくれることを願い、また確信することになります。それが預言者エレミヤです。「主よ、御名のために事をなしてください」と主に向き合う預言者です。
ここがさらにエレミヤらしいところですが、主はこの民に無関心な通りすがりの旅人なのか、勇士と呼ばれつつ人を救えないような者なのか、と主に問い詰めます。なんとも大胆な挑戦です。ここまで神に向かって文句を言える人は、そういません。もちろんエレミヤは、神をそんな薄情な方だと断じているわけではありません。
「主よ、あなたは私たちの中におられます」と、心の底から実は信頼していることを、きちんと告げています。イスラエルという名は、神の名を含む呼称です。「私たちを見捨てないでください」と、エレミヤは縋るように祈ります。但し、これだけのことでほんわかと態度を軟化するような主でなかったことが、やがて分かります。