同胞を思うエレミヤ

チア・シード

エレミヤ14:1-9   


日本に住むとき、特に現代では「旱魃(かんばつ)」というイメージがもてません。でもエレミヤの時代と環境において、それは切実なものでした。雨のない情景が詳細に描かれていますが、ここでは精一杯その苛酷さを想像する思いだけを抱えて、先を急ぐことにしましょう。この状態は私たちの罪のなせる業である、とは当時誰もが思いつく発想だったと思われます。
 
主に対して罪を犯した。エレミヤは暗示はするものの、主がこの旱魃を引き起こしたとは直接言っていません。安易に神罰だと結論づけてはいないことにまず気づいておきたいと思います。ここにあるのは、私たちの背信の大きさが目の前に置かれていることを認識させる預言です。ただ、そこだけ見つめていても何も解決しないし、前進もできません。
 
エレミヤは主を見上げ、主に呼びかけます。イスラエルの希望である主よ。救いをなす方よ。私たちに必要は声がここにあります。自分をのみ見つめるのではありません。己れの愚かさと小ささは知らなくてはなりませんが、そこに留まっているわけにはゆきません。この自分を支えているのは誰か。それは主です。主を見上げてそこに信頼を寄せることこそ、主が求めているのです。
 
主なる神はイスラエルにとり、通りすがりの旅人のような対応をするような方ではありません。もっと人格的に深く関わり、交わってくださいます。思えば人は神に対して、その時ばかりの旅の友のように接していたのかもしれません。苦しい時に頼みとするだけであってよいはずもなく、お参りをして帰って無関心ということでよいはずがありません。
 
ここでエレミヤは嘆きます。主の助けはまだ私たちには見えていない、と。今の私たちのように、どうしてまだ主の手は私を完全に救ってはくださらないのか、と心に懐きますが、これを訴えるところが預言者です。神に向けて問うのです。なぜあなたは、と神に向き合って問いを投げかけます。神に嘆願するというのは、そういうことです。
 
エレミヤはそのとき見出します。主はどこにおられるのか。私たちの直中にいるではないか、と。現に共にいる主をエレミヤは発見します。イスラエルの名自体、ここに主はおられる、という証ししているではありませんか。名は体を表し、イスラエルに神は確かにいます。この信頼は揺るぎません。
 
乾いたこの地に、渇いた神の民。大地は雨を待ち望み、民の心は神の救いを慕い求めます。エレミヤはこの民に罵られ裏切られ、捨てられ、いためつけられ続けていますが、それでもこの民の救いを主に願います。軽蔑したり裁いたりするのではなく、救ってくださいと同胞のことを主に頼みます。私たちは、エレミヤになれるでしょうか。

Takapan
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