悪者が栄えてよいだろうか

チア・シード

エレミヤ12:1-3   


主が正しいことは承知の上で、エレミヤは挑みます。それでも主と語りたい、と。悪しき者が安穏としていられるのは何故なのでしょう。どうしてこの世に悪が栄え、悪者が笑っていられるのでしょう。それは、義を求める者にとっては、ただの疑問であるだけではありません。まず憤りの対象であるのです。
 
エレミヤは決起逸り、主に噛みつくように迫ります。神が存在するなら、どうして世界に災いが起こるのか、という問いと、つながりがあるかもしれません。エレミヤは、その預言を人々に恨まれていました。もう主の名によって語るなと脅され、命を狙われてすらいました。自身屠られようとする小羊のなぞらえるほどでした。
 
主よ、彼らに復讐してください。そう願うほどでした。主はそれを受け止めた、とエレミヤは確信しました。しかしエレミヤの心は治まりません。どうして裏切り者が、平安なのか。この世でにこにこしているのか。主がそのように奴らを植えたのではないか、と矛先を主に向けさえして、エレミヤは懸命に訴えます。
 
どんなに口先で「主よ」などと言っていても、主から言葉を聞こうとせず、主の思いから遙かに遠い者たちが、どうして。しかし、主は私を知っている、とエレミヤは自らを奮い立たせます。私は主とつながっている。関係がある。結ばれている。最も深い恋人や配偶者より以上に、主と交わっているのです。私の心がどう試されようと、信実なのです。
 
信仰と信頼に満ちているからには、惨めに屠り場へ運ばれるのは私ではないのです。あの悪しき者、裏切り者たちのほうです。詩編にもそうした復讐の願いがありました。それは不信仰や不道徳ではないと私は思います。神を神とする中で、神と向き合い真摯に問うことは、その根柢で信を構えて岩の上に立つ、大切な生き方だと考えるからです。


Takapan
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