荒れ野は我が姿

チア・シード

エレミヤ12:10-17   


荒れ野と呼ばれる地を、私は直接に経験したことがありません。潤いのない、厳しい環境なのだろうと思います。生命の気配を感じられないような土地を、人は見つめていても安らぎを得られないことでしょう。人は、同じ命あるものとふれあうことによって、幸せを得るものだとするなら、荒れた地上は死をもたらすものなのかもしれません。
 
すると、目は自然と天上に向かいます。この大地を支配する創造主へ思いを馳せます。私たちのこの地は、神なる創造主に祝されたぶどう畑であると見るエレミヤ。実るぶどうは、天からの大いなる祝福です。でも、その実りへの育みを妨げる者が、人間のうちに現れました。この地イスラエルの内外から、それは現れてきます。
 
内からは、神に従わず自力で自らの欲のままに人と世を操ろうとする支配者たち。外からは、この恵みの地を奪い取ろうと目論む侵略者たち。もしかするとどちらが侵略者なのだという観点もありましょうが、いまはそれは置いておきます。ついには主が、この不条理を解決するために乗り出すことになる、とエレミヤはイスラエルに告げます。
 
ユダの家を憐れむのだと主は宣言しているのだと叫ぶのです。バビロンへ捕囚されてしまった後にも、再び必ず連れ戻すのだという回復の希望を、まさに現実の姿を示すようにして、ここに掲げています。これは、過去の物語に過ぎないのでしょうか。私たちはこれを、高みの見物でもしているだけで、よいのでしょうか。
 
呑気に構えて他人事とでも思っているようだと、実のところすでに捕囚されてしまっているのではないか、と気づかなければなりません。人の心は冷え、愛を盛んに口にするもののただの言葉だけ、称えていれば自分が愛の人となり、正義の権威が与えられるとでも思っているのが、人間です。でもそこには、本当は荒れ果てた姿でしかありません。
 
さらに具合の悪いことに、荒れ果てている自分の姿に、気づいてもいないし、気づこうともしないのです。台無しにした牧者が非難されていますが、それが自分のことだと意識することの必要性を訴えたいと思います。そして、引き抜かれてユダの家のように、惨めな姿を露呈している己れの中に、神の真実が外から及ぶことに、気づきたいと願います。


Takapan
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