古くて新しい契約

チア・シード

エレミヤ11:1-5   


預言者は、時に世から浮き、神の裁きや世界の運命を語るものですが、エレミヤは同じように警告を語るにしても、地に立ち、地にある人々に向き合いつつ、上からの言葉を告げます。エレミヤの視点は、低い位置から、人間に対して語っているように見えます。もうこの世は、かつてのモーセなどの契約の言葉のままではどうにもなりません。
 
これからは、新しい契約が必要だ、と言い渡します。いったいエレミヤのどこにそんな権限があったのでしょうか。一人の祭司に過ぎないではないか、そんな批判をも度外視し、エレミヤは語り、また叫びます。そして語り続けます。そのための言葉を、今エレミヤは主から聞いています。人間の心の中から沸き起こった思想ではありません。
 
確かに神から、それを聞いています。新しい契約は、神からもたらされたのです。この声に聞き従え。そうすれば神の民となるであろう。神の民とは、神の国の市民です。市民権を与えられた者です。ここに神の国があり、そこに住まうこと、市民として登録される権利を与えられるということです。その時代に合った言葉で、それは告げられるのでしょう。
 
かつてエジプトからイスラエルの民を導き出した時に知らせていた契約なのだ、という言い方もしています。新たな思いつきではないということです。けれどもその契約を、人間は勘違いして今日まで理解し、運用してきたのです。これはよく考えれば、イエスの革命と同じ図式です。時のエリートたちが、神の教えを歪めていたと言ったのです。
 
ユダヤ教のエリートたちはそのとき、自分たちこそ神の律法を司る者であり、自らちゃんと守っているではないか、と自認していました。神を代弁するのは自分たちであると思い込んでいたのです。けれどもイエスはそれを粉砕しました。否、イエスが殺されるという形で粉砕されたのかもしれません。でも、その勝利者は間もなく明らかになりました。
 
イエスの口からこぼれる教えもまた、かつて神がイスラエルを導いた律法となんら異なるものではありませんでした。むしろその律法という契約が何を本意としているかを指摘し、示すものでした。エレミヤに与えられた神からのメッセージも、そのようなものだと考えられます。新しい契約と称するものでありながら、昔からの真実であったのです。


Takapan
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