神に挑む人間

チア・シード

エレミヤ10:6-16   


主に並ぶ者はない。そんなふうに並べようとすることなどできるわけがない、と、信ずる者は思いがちです。思って当然です。否、そもそも人間と神とを比較すること自体が、とんでもない間違いだと言って差し支えないだろう、とも考えます。エレミヤ書では、王や知者たちの中から王に比べうるものはない、としている程度ではありました。
 
けれども近代の人間は、自分を偉くしてしまったので、自分が王になったつもりでいると言えるのかもしれません。ところがそのような反省をもつのもまた近代人。どのみち、人が並ぶことは否定されるのであるにしても、比較しようと思い立つこと自体不遜だと見るのは、絶対者という概念を用いた近代特有の考え方ではないか、とも考えられます。
 
絶対者という概念は、比較相対化できないという故に、対立を絶したものという、神への尊崇からきているのでしょうが、古代において、つまり聖書が記された当時には、もしかすると人間と神とを比べることは、まだ相対的なものだと指摘されるようなことさえなかったのではないでしょうか。神と人とは、もっとおおらかに親しく関係していたのでは。
 
エレミヤは、ここで実は偶像と神との違いを鮮明にもたらそうとしているのでした。人の造ったものにひれ伏す、それが世の多くの民族の間でなされていることでした。そんな習わしが空しいとエレミヤは訴えています。巧みな技が美しい像を刻んだとしても、そこに命はありません。人は自らの技を誇り、人が人を偶像としていくようになります。
 
偶像を造ることは、人を偶像とすることだと気づきたいと思います。自己を絶対化することでもあります。自分で思うだけでなく、自分を他者にとっての偶像とさせるようになると、また恐ろしいものがあります。しかしそんな「神」はあっけなくこの世界から滅び消え去ってしまいます。エレミヤはあらゆる偶像を潰さねばならないと叫んだのです。


Takapan
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