預言者として痛みを負う
チア・シード
エレミヤ10:17-25
エレミヤの預言は激しい。主へ挑戦する勢いも辞さず、また人々からの露骨な迫害も受けて立ちます。命を懸けて主の言葉を訴える預言者の姿は、逞しくもあり、どこか馬鹿正直でもあります。エルサレムへの断罪や、これからの運命についても手厳しく、ついに「今度こそ放り出す」とまで言い始めました。裁きが始まったのです。
「ああ、災いだ。/私は傷を負い/私の傷は痛む」と言う「私」とは誰のことでしょうか。「主はこう言われる」を受けているのならば、主です。そして「これこそ私の病。/私はそれを負わなければならない」という言葉は、イザヤの描く主の僕の姿を思い起こさせます。しかし痛みを負わされたのは、預言者エレミヤも同じでありました。
この痛みを、エレミヤも覚えているのではないでしょうか。重ねて叫んでいるのではないでしょうか。「私の天幕」「私の子ら」は、主なる神の視点である、とも言えるでしょう。ところが視点は自然に変わり、「主よ、私は知っています」とエレミヤから主へ告げている内容が記されています。「人間の道」はもはや自分のものではありません。
さらにそれは、自身でコントロールすることもできません。預言者としてエレミヤは、エルサレムを決して突き放して見ているわけではありません。「主よ、私を懲らしめてください」とは、エルサレムよりもむしろ前面に飛び出している言葉です。ただそれは「怒り」のみでなされるのではなくて、「公正」を以て臨んでほしいと願います。
エレミヤが「無に帰してしまう」ことがないためです。そして、イスラエルを「食い尽くして絶望され」た敵に対しては、「憤り」を以て対処してほしい、と本音をぶつけています。イスラエルがただ潰されてよし、とするのではないのです。それから先の物語があるのです。イスラエルへの裁きは、決して最終的な結末というわけではありません。
確かに、エルサレムは罰を受けなければなりませんでした。しかし、神の本当の裁きはその先に、その向こうにあります。私たちもまた、罰を受けねばならない罪の中にありました。けれども、イエスの赦しによって、その先が待ち受けていました。エレミヤは災難を受けましたが、やがて良い報いがあります。エレミヤは、それを信じて止みません。