危機を叫ぶ者

チア・シード

エレミヤ10:17-22   


危機を叫ぶのは、かなり愚かなことのように見えます。平穏な中でひとり慌てふためくように見られると、軽蔑されるでしょう。もしその警告が現実とならなかったら、嘘つきだと責められるでしょう。本当にその危機が起こってしまったら、混乱の世となり、語った者のことなど誰も気にする余裕がないでしょう。どうなっても何のメリットもありません。
 
エレミヤはこの役割を請け負ったのでした。まさに、神のことばを預かってしまったのです。しかし頭の良い人だったと思います。損しかない役回りが分かっていましたが、引き受ける覚悟を決めました。神に背を向けようとしたこともありましたが、神はそれを許しませんでした。
 
もしこの危機の警告が良いことであると受け止める者がいるとしたら、それを信頼して備えた人々です。聞き従った人は、神の審きを受けずに済みます。万一警告通りにならなくても、悪い生き方をすることにはなりません。それはよいにしても、やはり預言者はどうにも割の合わない仕事であるような気がします。
 
ただ、神ご自身、こうした不利な立場の大もとであったはずで、いくら人間に警告を与えても無視される、学級崩壊の現場で唖然とする教師にも似た孤独さを味わっていた、とも考えられます。エレミヤのように神もまた孤独で、だからこそエレミヤはその神の立場を味わうことにもなるのでした。
 
シオンの娘よ、と呼びかけます。それでも報われません。それどころか人々に責められ、苦しみを受けます。この警告は現実となりますから、エルサレムは攻撃を受けて崩壊することになります。そのエルサレムを目撃するのも辛いことです。空しさが押し寄せてきます。神から与えられた豊かなイメージを実際に目の前に見てしまうのです。
 
エルサレムは、相応しからぬ指導者たちにより、誤った道を進んできました。エレミヤの忠告も捨てられ、悲しい預言の通りになります。この箇所の直前で、エレミヤは偶像礼拝の愚かさに言及しています。神ならぬものを神として拝むことのばかばかしさを呆れるほどに告げますが、顧みられることはありませんでした。
 
現代の私たちが、同様に木や金属の偶像を拝んでいるということはないでしょう。少なくともキリスト教徒である限りはきっとそうでしょう。いや、本当でしょうか。自分のしていることが分からない人間という生き物のはしくれとして、自信がもてるのでしょうか。本当の神だと思って崇めているつもりで、全く違う方向を見ていないと断言できるでしょうか。
 
エレミヤはその意味では、主と一つの心でいられたのではないかと思います。自分を忘れるほどに、神のことばを取り次ぎました。自分の意見を言うことから遠く離れ、神から受けたものを流す仕事を担いました。このような人は幸いです。主を知ることに没入できる魂は、信の中を生きています。その時、確信を以て、危機を叫ぶことができるのです。

Takapan
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