祈ることができる

チア・シード

ヨナ2:1-11   


ヨナの祈りは特殊です。主の命令に背を向けて逃げ出したところ、船が災いに遭い、その災いは自分のせいだと申し開き船員を助けるべくヨナは自分を海に投げ込めと頼み、人々は助かることとなりました。海の藻屑と消える運命にあったヨナでしたが、主は魚をもたらし、ヨナを呑み込ませます。この状況でヨナは祈ったのでした。
 
奇想天外な発想からここまでくるのですが、ヨナはこの魚の腹の中で滅びの穴から引き上げてもらった感謝しています。奇妙なことですが、しかしとにかくヨナは祈ったのです。祈っているということは、ヨナは助かっているのであって、生きているからこそ祈ることができる。祈りがあること自体すでに感謝して然るべき状況にあるというわけです。
 
ヨナはこの時主に向き合っていました。もう逃げません。ヨナの祈りは、死を覚悟した海中での出来事を多く振り返っています。あの時自分は主に叫んでいた。そして主は応えてくれていた。確かな手応えがそこにあった。大水が襲い海に沈み地の底に落ち込んでしまったと思っていた。しかし、命をこうして取り戻すことができた。
 
ヨナは、祈りが主に届いていたのだと胸を撫で下ろします。主の聖なる宮へ届いたと関心しています。これは空しい偶像ではありません。私たちがどんな苦しみに遭ったところで、今こうして祈ることができているなら、案ずることはありません。もうすでに私は助けられているのです。あのまま死んでしまっていたら、今のこの祈りすらないからです。
 
これは単なるレトリックのように思われるかもしれませんが、事実です。私たちは祈ることができる。このことを感謝しようではありませんか。主を思い起こし、主に届けとばかりに叫ぼうではありませんか。ヨナは「いけにえをささげて、誓ったことを果たそう」と言いましたが、キリストといういけにえがなんとその神から備えられていたのでしたね。


Takapan
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