それでも神に向かって問う
チア・シード
ヨブ7:1-21
不条理な災難に見舞われたヨブの許へ、3人の友人が訪ねてきます。慰める言葉もないままに一週間を費やします。そこでヨブが口を開きます。「自分の生まれた日を呪った」(3:1)のです。これに対して3人は、我慢がなりませんでした。神の恵みを無にするような呼ぶの発言は、いかに災いの中にあるヨブでも、駄目だと思ったのです。
まず、エリファズがヨブを責め始めます。「神からの懲らしめを受ける人は幸いである」(5:17)と言う。ヨブは、反論します。自分は、懲らしめられるような悪いことは何もしていないのだ。そして7章、呼ぶの舌の勢いはますます激しくなります。「そうだ/私は空しい月日を受け継ぎ/労苦の夜が割り当てられた」とヨブは嘆きます。
これは納得できる罰ではありません。私はもうただ虚しくこの世から消えてゆくしかないのです。確かにヨブは神を信じていました。「もしかすると子どもたちは罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」(1:5)とまで思い、神にいけにえを献げていたほどです。しかし今や「いつまでも生きたくありません」とまで口に出すようになりました。
「人を見張る方よ」と神を呼び、「私が罪を犯したとしても/あなたに何をなしえるでしょうか」と、自分には罪を犯した覚えがないことを示します。「どうして私を標的にしたのですか」と食らいつくとなると、神に向けて愚痴を垂れているかのようです。それでも「どうして、私が私自身の重荷を/負わなければならないのですか」と叫びます。
それは、やはり神に向かっていることを表します。神という相手を見ています。神と向き合っているのは確かです。「私の日々は空しい」とまで落胆しているヨブですが、神をずっと「あなた」と呼んでいます。せいぜい「人とは何者なのか」と問うことによって、神と人との関係を見定めようとするヨブの問いは、私たちの問いでもありましょう。