ヨブを見つめる神と人の目

チア・シード

ヨブ7:1-8   


理不尽な不幸の嵐に見舞われたヨブは、その友の一人エリファズの言葉を受けて、自分に非があったわけではない、と弁明します。ヨブの主張は尤もです。この不幸は、サタンの誘いと、それに乗った神とにより起こされた異常事態でした。読者はこれを知っています。私たちはこれを、どこか他人事として見ています。
 
当事者のヨブにしてみれば、不条理極まりない出来事です。私たちがここにコメントしたところで、何の意味があるでしょう。それはヨブの友人たちと同じ過ちを犯すこととなります。ヨブは嘆きます。これを聞きましょう。評しないで、傾聴しましょう。「いつ起き上がれるか」ともだえ苦しむヨブの声を、じっと聞きましょう。
 
ヨブの痛みを、私たちは現実に知ることはできません。でも、少しだけ息苦しさを覚えて聞きましょう。自分の命は瞬間だけのものだとか、苦しみでしかないとか、主に訴えるその人の声を受け止めましょう。これまでどんなに贅沢で恵まれた人生を送っていたか、そんなことは関係ありません。人生はプラスマイナスの計算で賄われはしないはずです。
 
人の目からも、神の目からも、それは隠されています。無意味な人生なのだと嘆くヨブに、じっと目を注ぎ、その声に耳を傾けましょう。憐れみや、妙な優越感から眺めるのではありません。ただ見るのです。そして、息苦しさを知るのです。「私はいません」と絶望するヨブに向けて、沈黙の中で、「そうではない」ことを証明するのです。
 
ヨブはそこにいます。人によっては、このヨブと同様、あるいはそれ以上に痛みの中にあることでしょう。正にヨブとして、今苦しんでいる人が実際にいます。ヨブと共に呻いているとき、見つめられている目があることに気づいてほしい、などと言うと、よけいに辛く嫌に思われるでしょうか。誰かの祈りがあったら、それは重荷でしかないでしょうか。


Takapan
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