発言する立場によって

チア・シード

ヨブ5:17-20   


七日間黙したまま、不幸のどん底に陥ったヨブに伴った友人たち。それだけでも、またとない友情物語でありましょう。何も声をかけられない。だがそばに寄り添う。私たちが気楽に「寄り添う」と口先で言うのとは違い、友人たちはまさに寄り添ったのでした。そしてついにヨブが口を開きます。物語が動き始めます。
 
ヨブは、自分の生を呪いました。これを聞いて、友人たちも動き始めます。テマン人エリファズという一人が、そのヨナの言葉を、神に対するよろしからぬ不平不満だと見たのです。それでヨブを窘めるかのように、論を展開します。ここでそれをすべて追うことは遠慮します。ヨブを幸いとすら呼ぶ無神経さは見習いたいとも思いません。
 
しかし、こんな目に遭った上でなお神に信頼を置くべきだとするような考え方そのものは、理解できないわけではありません。この傷も神が癒すだろうとするのも、あながち間違っているとは思えません。七度、つまりとことん苦難に見舞われてもヨブよ、それは災いとは言えないのだ、とエリファズは告げています。
 
君は救い出される。友はヨブにそう言います。信仰的に嘘ではないのでしょうが、あまりに冷たい言葉です。ここで考えましょう。私たちが言っているのは、しばしばこれではないでしょうか。不幸で不運な誰かに対して、見舞い慰める際に、言葉もないなどと言いながら、それでも沈黙に耐えられず、何か言わなければ、と思い、こんな正論を述べる。
 
悪いことばかりじゃないよ。それは確かにそうかもしれません。慰めになりうる考え方だとも言えるでしょう。けれどもそれは、平穏無事な立場の人間が、絶望的な情況の中にいる人に向けて言うセリフであってはならないのです。共に苦難に喘ぐ者なら、苦しい人に向けて言葉をかけることがあるかもしれませんが、それでも嫌がられることはあります。
 
安全な高みから、苦難の人に向けて安易に慰めを落とすようなことは、できないのです。たとえ神の言葉であっても、傷口に塩を塗るような振る舞いをすれば、そこに愛はありません。では、怒りと裁きの神とも言われる旧約の神が、どのようにして新約の神への変化したのでしょう。キリストの出現がどうして画期的だと見なされたのでしょうか。
 
キリスト自身が、最悪の苦痛を味わったこと、現実となる命の言葉をかけたこと、これらがあってこそ、キリストの救いというものが成立したのでした。エリファズのような言葉のかけ方とは、全く異質のものと言わざるをえません。同じ言葉でも、その立場によって、全く様相が変わってしまいます。聖句の受け売りが正義だとは言えないのです。


Takapan
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