人の思いや価値観の無力さ

チア・シード

ヨブ42:1-6   


ヨブ記の構成や記事の添加についても、ずいぶんと研究が進んでいます。その枠構造が指摘されると、冒頭の設定が直ちにこの結末に結びついても、さしあたり筋道ができます。ヨブ記は、人生の不条理についても、私たちに深く考えさせる力をもつ作品となりました。でも、そこにある一つひとつの出来事について、見過ごしてはならないものがあります。
 
それは、私ひとりの人生の中に刻まれていく重みです。つまり、これを軽く見てはならない、ということです。私は知りました。これは頭のみの知識のことではありません。全身で、全人格を通して体験したからこその言葉です。あなたを見ました。ただ眺めたのでもないし、視野に入ったのでもありません。もうあなたの視線から逃れることができません。
 
あなたとの出会いを体験しました。あなたがかけがえのない存在となりました。私は聞いていました。呼びかけられるその声が、音として知覚されただけではありません。魂を貫き響き、その声に従っていく力を与えられたのであり、そういう聴き方ができたということです。主が語り、私へ向けて問うのです。だから私は、応えなければなりません。
 
ただ応えるしかありません。ヨブは自分を退けると告白しましたが、主に応えたのであり、これを以て悔い改めとなすというのです。ヨブは本当に悔い改めなければならなかったのでしょうか。サタンの計画に同調した主が認めたが故に、散々な目に遭ったのではありませんか。ヨブはなんとか命長らえましたが、失ったものが大きすぎました。
 
これは象徴として描かれたのだとしても、あまりに理不尽極まりない仕打ちです。主の企ての前に、全く無力であるというのは、人の思いや価値観の無力さを表しています。覚ってもいないことが、空理な人間の知恵だ、とヨブは痛感させられます。人のほうから問うのは、ひたすら退けられるばかり。神の与えるものを待つしかないのでしょうか。


Takapan
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