聞くことから見ることへ

チア・シード

ヨブ42:1-6   


この箇所は、挿入ではないかと言われています。この前後をつなぐとすんなり読めますが、この箇所があることで、特に42:7の不自然さが際立つからです。ヨブ記というすばらしい文学は、複数の人の手によりまとめられたと考えられます。修正や追加を重ねながらできあがってきたようなのです。時につながりの悪いことがありますが、結局この形で伝えられてきました。
 
神は本当に正しいのか。今も問われ得る問題です。その正しさとは何かも含めて、人間自身が問われているような気がしてならないのですが、この物語の結論をユダヤの知恵者は考えに考え、ヨブが神の業をすべて理解できているわけではないこと、神は人の計り知れぬ知恵と計画を以ていることをヨブが思い知るという結末を用意しました。しかし、ヨブは神の祝福を受けるのです。ひとは祝福されうるのだとしたのです。
 
神の言葉を挟むのも、また別の人の手によるのではないか、とも言われていますが、それなりに読むこともできます。ヨブは神からのお達しを受け容れ、神の知識など人は持ち得ないと告白します。どこか皮肉なことに、このことを描く物語自身、人でありますから、その知識を持ち合わせていません。いわばメタ的に、筆者も読者も皆、結局のところ神のすべてを知り尽くし得ないという事実の前に立たされることになります。
 
ここでヨブが「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と主の前に打ち明けていることに注目します。「注目」自体、見ることを意識した表現ですが、私たちは見ることに頼っていることを自覚します。しかし、主を見た者は死ぬとまで言われ、神を見ることはできない前提が聖書に流れていました。ヨブは何を見たのでしょうか。
 
聖書はしばしば「聞け」と人に命じます。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)ともあり、また聞くことは「言うことを聞く」のように、聴き従うことを含意しています。か細い声を聞いたエリヤのように、またサムエル少年もそうですが、神の声を聞くことが、信仰の歩みのスタートであり、また方向転換の要ともなっていました。
 
ヨブは聞いていたのだと言いました。ヨブは、神に従って生きていたのです。律法としてではないかもしれませんが、申し分のない神にある生き方を実際に歩んでいたのです。友人たちに対して躍起になったのも、この点を否定されたためであったのではないでしょうか。ヨブは信仰の歩みを確かにしていました。その自覚はありました。しかしながら、今主を目で見たと言っています。初めてのこととして告げています。
 
私たちは「見る」という語を「会う」という感覚で使うことがあります。英語然り、日本語でも「お目にかかる」のように捉えます。ヨブは、このとき主に出会ったのだと理解しては如何でしょう。信じることは聞くことから始まりますが、いわば聞く段階では信に留まります。私は黒い白鳥がいると聞いている、そう信じている、と言う段階です。それが実際にそれを見たら、もはや信じているとは言わず、見たと言うはずです。
 
聖書は注意を促す時にしばしば「見よ」というフレーズを入れます。残念ながら日本語訳ではこれを省略することが多いのですが、実に多くの個所で「見よ」と書かれています。私にはこれが、「神に会え」と言われているように思われてなりません。そしてそれは「神と出会う」ことであると共に、「神に向き合う」ことであるに違いない、とも思います。そこに祈りがあり、そこに人の生きる道があると思うのです。


Takapan
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