ヨブ記の結末の問題に思う
チア・シード
ヨブ42:10-16
そもそも神が悪魔の計略に乗っかるかのようにして、ヨブを不幸のどん底に追い込んだ物語だと見られても仕方がありません。そのヨブを見舞いに訪ねた三人の友人とヨブが、その不幸の理由についてあれこれ長々と論じ合う場面が続いてきました。必ずしも、すっきりした議論にはなりませんでしたが、ついに現れた神の前に、呼ぶの饒舌は止まります。
ヨブは、「今、私の目はあなたを見ました」(42:5)と告白し、「それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます」(42:6)と言ったのを最後に、舞台での発言を終えます。主は友人たちに怒りを発しますが、ヨブの執り成しにより赦されるものとしました。そしてここで、ヨブの祈りを受け容れ、「主はヨブの繁栄を回復」します。
そればかりか、「ヨブの財産を二倍に増やした」というのです。ここからが、解釈者の意見の分かれるところです。いわゆる神義論をテーマとすると解されたこのヨブ記は、史実とは見られておらず、あくまで物語だという位置づけですが、たとえ人間の身に不幸が続いたとしても、神の正しさは揺るがないことを示したかったのではないでしょうか。
けれどもヨブが悔い改めた後、主はヨブの財産や子どもたちをすっかり回復させます。子どもたちの構成は、最初と変わりませんが、家畜の数は1章にある数からきっちり二倍に増えています。こうなると、めでたしめでたしで終わっているようにしか見えません。これではまるで、神が正しいと忍耐した者が、この世でいい報いを受けただけの物語です。
善いことをしたら神はちゃんと報いを与える。お話としては落ち着くのは確かです。でも、そういうストーリーでよかったのでしょうか。本当にこれでよかったのでしょうか。何かしらヨブを気の毒に思った者、やはり現世の幸福が望ましいと考えたものが、この物語のラストシーンを書き直したか、書き加えたかしたという推測も成り立つというのです。
キリスト者は、どう受け止めるでしょうか。余りに死後の世を期待しすぎることもありました。この世は不条理で不幸だから、信じれば死後幸福が与えられる、という信仰もありました。でもヨブは現世で幸福を得ています。もしかするとこの箇所は、神の国での出来事を描いたのだ、と理解した方がよいのではないでしょうか。邪道かもしれませんが。