ヨブの祈り

チア・シード

ヨブ42:1-6 


ひとが正しく生きていてもどうして不幸な目に遭うのか。神はどうしてそれを認めているのか。古来、ヨブ記の中に、人々はそんな問いを投げかけ、答えを得ようとしてきました。神義論などとも呼ばれる論議がなされますが、私はそればかりに固執する必要はないと考えます。苦しみの中に意味を見出すことも許され、また神は正しいのかなどと問う以前に、神は神でありましょうから。
 
ヨブ記もまた、人間の疑問に十分答えているようには見えません。ここで神学の結論を出しているわけでもなく、いわば問題を読者に丸投げしているかのように受け止めることもできるかと思われます。とにかく物語は、長々と3人の友人とのどこか同じような内容の対話が続き、読む者をややもすれば退屈な気分にさせてきましたが、いよいよここでフィナーレを迎えます。
 
ところが、今日の箇所は実に不自然です。直前の41章の終わりから、42:7が自然なつながりに見えますし、どう見てもその間のこの箇所は無理な挿入です。話がつながりません。研究者の中には、その中でもさらに後世の書き込みが本文に混じった部分ではないかとする語句を指摘する人もおり、錯綜としています。また私見ですが、42:9の後半から先は、なくもがなのベタな結末で、文学的に、また個人的感想ですが神の業の物語としても、これがないほうがすっきりするような気がしてなりません。めでたしめでたしのような結末は、陳腐な安心感のように思えなくもないのです。
 
ともかくこの箇所は、ヨブの最後の祈りです。これを受けて42:9以下があるのですが、この祈りは、神が最後にようやく口を開いてヨブにぶつけてきた問いかけへの、ヨブのレスポンスではありますが、同時にまた、読者からどう返答するかを問うものでもあり、ヨブの祈りはそのひとつの模範解答であるかもしれません。
 
ひとは、神の前には黙するよりほかない。ヨブはついにそういう境地に至りました。神の知・計画は、ひとの思いのすべてを超えています。自分でいつしか神はこうだなどと決めつけていた認識は、とても神の真実に及ぶものではありませんでした。これだけ痛い目に遭い、問い詰められて、初めて思い至った主の大きさに気づかされました。尤も、そうなるとあのサタンは何者だったのだということになりますが、いまはそこは問題にしないことにしましょう。
 
自分はなんと無力なのだろう。小さすぎる。悔改めの祈りがヨブ記の結末であると読んでみます。それでは、ひとは神に何か訴えるようなことは、してはならないのでしょうか。そうではありません。ヨブは自分を退け沈黙しますと確かに言いましたが、それは誰に向けて言っているのでしょうか。神に対してにほかなりません。ヨブは神に心を向け、語っています。あの人間的に問題の多すぎたダビデがあれほど主に愛されたのも、このことの故であったはずです。神に問いかけようが文句を言おうが、すべての言動が神に向き合っており、神を認めているか、そこが肝腎なところであることをここから学びたいと思うのです。


Takapan
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