ヨブは勇者と呼ばれた

チア・シード

ヨブ40:7-14   


不条理な災難に見舞われたヨブに、3人の友人がそれぞれ、自分なりの神の摂理を主張してヨブを黙らせようとしますが、ヨブは徹底的に抵抗します。最後にエリフという若者が突如登場して、友人たちが突けなかった核心の神の力を拓きます。それが済むとついに主が顔を出して、おまえにどんな力があるのか、とヨブに迫りました。
 
その初めのところで「あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。あなたに尋ねる、私に答えてみよ」(38:3)と主は言いました。ヨブが言い返す言葉を引っ込めると、主は再び同じフレーズを突きつけます。ヨブを叩きのめす目的ではないと思われます。「あなたは勇者らしく」とあるように、ヨブを勇者だと称えているように見えます。
 
もちろん、ヨブは神のような力をもつものではありません。おまえにはこれができるか、あれができるか、と反語をぶつけて、人間の分際で神のような業を示すことができるはずがないことを明らかにします。そうなると、先ほど繰り返されていた「勇者」という語も、反語的に、アイロニーとして読み取ることもできようかと思います。
 
果たしてそれは、ヨブのことを褒めたのでしょうか。励ましたのでしょうか。私はそう受け止めてみたいと思います。それが必要な姿勢ではないかと考えるのです。これは主からの励ましだ、と。「答えてみよ」に先立って言われているのです。居並ぶ反語で攻撃する問いかけとは別の位置に、前以て置かれていると理解したいのです。
 
イエスが、「腰を据えて考えてみよ」と話した場面が福音書にありました。ひとつ覚悟を決めて、よくよく考えてみよ、と落ち着かせたように思えます。これに似ているように感じました。このときヨブは、自分は神に対して何ももう言い返す資格がない、と自分を引いています。もう神に向けて文句を言うような真似はしない、と言っています。
 
38章のときにも恐らくそうだと捉えたいのですが、少なくともいま、主はヨブに勇気を与えようとしているのではないか、と思いたいのです。ヨブがすでに勇者なのではなく、ここから勇者となれ、と。主は理不尽にも創造の業をさらに見せつけてゆきます。3人の友人たちには怒りを向けますが、ヨブは確かなことを語ったと褒めているのだ、と。


Takapan
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