口を開いたヨブの弱さよりも

チア・シード

ヨブ3:20-26   


ヨブが口を開きます。ヨブの活動を始めます。それまでヨブが口から出したのは、裸でまた帰ろう、主は与え奪うのだ、というくらいのことでした。それと、妻からの罵声に対して、神から災いをも受けようと返答した程度でありました。不幸の見本市の中に投げ入れられた中で、いわば、優等生の発言しかしてこなかったのです。
 
それがヨブの一つの真意であったのも確かだとは思います。そこに三人の友人が訪れます。一週間の沈黙を置くなど、彼らの友情も篤いものでした。それは正に言葉にならない事態だったことでしょう。そしてついにヨブが口を開いた、その場面。それはまず、生まれた日を呪うものでした。なぜ生まれてきてしまったのか、実に悔しい気持ちの吐露です。
 
一週間にわたりこころに積もっていたものは、このような生への否定でした。生まれたから死にたいというのではなく、なぜそもそも生まれてきたのか、と神に問うのです。その嘆きの果てをいま味わいます。これらの言葉の後に、ついに友人たちがヨブに抵抗を始めるのですから、ヨブもまたずいぶんはっきりとものを言ったということなのでしょう。
 
死んだほうがましだと思う一方、ヨブは、命が与えられたことを、神のまちがいであるかのように訴えました。神はこれを聞くことでしょうが、しかし神に向けてこれを言っているのかどうか、私には分かりません。誰へともなく嘆いているかのようにも聞こえるからです。それでも、やはりこれは、神に対しての嘆きであるのだと私は感じます。
 
生まれた日への文句ではありますが、自分がいま恐怖に包まれていることを自覚しています。なんら安らかであることができず、休みや安らぎはありません。だとすると、先日までのヨブはどうだったのでしょう。恐怖もなく、平安だったのでしょうか。それは財があったからでしょうか。子がいて幸せに暮らし、自らの心身が健康だったからでしょうか。
 
それなら、正にサタンが目論んでいることと同じです。災いをも受けよう、と妻に対してきっぱりと告げたヨブの陰には、このように幾分弱い面が隠されていたことに気づかされます。しかし、そこからさらに、ヨブほどの強さもなく、それを弱いなどと批評する資格など全くない、自分の姿を思い知る私の姿が、目の前に迫ってくるのを覚えます。


Takapan
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